なぜ神永とウルトラマンが入れ替わったことに周りは気づかないのか?-『シン・ウルトラマン』感想

アマプラで『シン・ウルトラマン』を観た。『シン・ゴジラ』のような緊迫感はないが、奇(外星)人変(外星)人観察日記のようなエピソディックな構成で楽しめた。気になったところをメモ。以下、ネタバレしてます。

 

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ゴジラ登場後という世界線で、すでに巨大生物に対する対処法もマニュアル化されている。『シン・ゴジラ』同様、官僚は優秀で、何かが起こったら日本政府はどう対処するかプロトコルがすでに細かく決まっていることが、序盤で延々と描かれる。その上にミルフィーユのように、「政治の世界はどう動くか」も示される。主に言葉だけで説明されるが、こういうディテールは重要である。台詞ですべてを説明しすぎの感はあるが、怪獣や日本の団地を描くのに全振りしたのだろうか。日本政府に対応を迫る外国人外交官さえ出てこない。日本で完結した閉塞感があり、そこに国連の建物や外国人キャストを多用したオリジナルとの違いを感じた。

 

面白かったのは、斎藤工演じる神永とウルトラマンがどのタイミングで入れ替わったのか、禍特対の仲間にも観てる側にも映画半ばまで分からないことだ。神永新ニが避難し遅れた子供をウルトラマン着陸時の衝撃波から庇って命を落としたことに感銘を受けたウルトラマンが、神永の身体に入り込む。神永と同じチームメンバーは物語半ばまで、中身が入れ替わったことに気づかない。人間の行動様式を解さないような、かなり独特なコミュニケーションをしているというのに。ここから類推されるのは、神永が普段から公安出身の公務員らしく隠密行動が得意で真意をなかなか明かさなかったことだ。また、ウルトラマンに代わる以前の神永が、高度な職務遂行能力を有していたことが、少年を救いに行く前のチーム内のやり取りからも分かる。死亡前の神永とウルトラマンが持つ、禍威獣に対する知識と分析に遜色はない。そのため、二人が入れ替わっていても周囲に気づかれなかったのだ。高度に職能が発達した公務員と人間の何倍も高度な文明を持つ外星人の能力が等しく描かれている時点で、日本の公務員讃歌と言える。ほんとにスタジオカラーはしごでき人間が好きだなあ。

 

エヴァンゲリオン』で葛城ミサトのみが生き生きしていたように、この映画では浅見弘子のみが自分の身体にグリップを持っている、という感じがした。同僚女性への尻パンが散々批判されていたようだが。ウルトラマンの身体を「綺麗…」とコメントするのも彼女である。要するに、本作の身体性は浅見とウルトラマンが担っている。

 

「人体」を特撮でどう捉えるかが本作を通じて考察されているように思う。従って浅見がことあるごとに自分の尻を掴むことは思ったほどノイズとは感じなかった。「気合い入れるためにそんなことする女いるぅ?」とは思ったが。

 

男女ともに太ももの辺りが大写しに接写される。机の下から撮られた登場人物たちの職場での顔は、オフィス家具に切り取られているように見える。この撮り方から考えられるのは、監督が人体を、画面を構成するための一種のフォルムとして捉えているということだ。ただ撮っているだけではない。小さいものと大きいものを遠近法で並置して、その違いを楽しむというのは特撮ものの醍醐味だと思う。浅見弘子の巨大化エピソードはやりすぎだとは思うが。そこに過度な性的視線は感じなかった。

 

故事成語や日本の商取引の慣習に精通したメフィラスが最も印象に残る。外星人なのに総理大臣が座るまで頭を上げないとか、それに違和感を抱かず当然のこととして受け止める総理を見せることで、人間の傲慢さを表すとことか。秀逸の一言しかない。

 

「禍威獣が現れるのはなぜか日本だけ」という設定から、禍威獣を生物兵器として利用しようとする外国勢。世界から熱望される対象としての日本をこうも堂々とやられると、少し鼻白む。近年、バラエティ番組等で著しく見られる「外国が喉から手が出るほどほしい何かを日本が持っている」をこうもあからさまに邦画でやられると、正直興醒めする。

 

成田亨の造型を損なわない程度にパッキパキにアップデートされたゼットンは格好よかった。生物兵器の描写がここまで来たかと思った。

 

浅見がせっかくウルトラマンの美しさを理解し陶酔するような表情を見せてるのに、終盤のゼットン戦への送り出し方が「頑張って」というだけでまったく工夫がない。しかし未知なるものに圧倒される役回りに長澤まさみを当てたのは正解で、あんなに台詞は酷いのにきっちり仕事をしている。

 

「問題ない。君たちが生き残ることが最優先事項だ」と、ガースー官房長官のようなノリで神永が人間の案を即採用し、ゼットンに1ミリ秒で特攻を仕掛けて倒す終盤の展開はあっさりしすぎていた。しかしそのあとのゾーフィとの対話を見て、「ああ、これがやりたかったんだな」と思った。ルドルフ・シュタイナーレヴィ・ストロースの著作で仄めかされるのは、「人間とは何か」という問いにほかならない。しかしそこに、『シン・ゴジラ』における「日本は愛されてるわね」と同じ類の自己愛を感じ取ったのも事実だ。『シン・ゴジラ』とは異なり、自己愛には止まらない真摯な思索が展開されてはいたが(「分からないから一緒に暮らして考えたい」と結論づけるところ)。

 

高橋一生が出演していたことをエンドロールで確認し「え?どこに出てたの?」とネットで調べてみたら、ウルトラマン役とのこと。斎藤工だと思ってたので驚いた。リピアー=ウルトラマンと神永新二は別人というのをそこで表すなら、もっと声質が違う人を採用した方がよかったのでは?

(ネタバレあり) なぜロンドンだったのか-『ラストナイト・イン・ソーホー』感想

エドガー・ライト監督の『ラストナイト・イン・ソーホー』(2021)をアマプラで観た。以下、ネタバレあり感想です。

 

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ダリオ・アルジェント監督のメジャーな作品の影響をかなり感じた。

 

・ある職業のプロフェッショナルとなることを求めて越境し、学校の寮に入るヒロイン(『サスペリア』(1977)のスージーはニューヨークからドイツのバレエカンパニーへ入団/ 本作のヒロイン、エロイーズはコーンウォールからロンドンのファッション専門学校に入学)

・タクシー運転手に寮まで連れて行ってもらう(『サスペリア』の冒頭場面だ)

・明滅するライトを含め、全体的に赤い画面

・鏡が効果的に使われている(アルジェント作品では鋭利な物で突き刺すシーンがよく出てくるし、鏡そのものがトリックに使われている場合もある/ エロイーズは一種のミディアムで、鏡を媒介にし故人を見る("medium"=霊媒だが、本作では一言もその単語は出てこない。"I see visions"という言い方をしており、一種の特殊能力としてエロイーズも周囲も捉えている)/サンディとエロイーズの同質性が鏡一枚を隔てて示される。 

・アルジェント作品のタイトルにもなっている"インフェルノ"というバーが出てくる

・犯人の正体にも強くアルジェントの影響を感じたが、それは後述する

 

ライト監督のオリジナル要素としては、殺人者を同情的に描いていることがある。アルジェント監督の殺人者はたいがい怪物性を帯びた殺人狂のように描かれるか、実際に魔女等の超自然的力を身につけた者である。

 

それに対し本作の犯人像は、「何人もの男性に性的搾取をされ続けた女性、サンディが、連続殺人鬼に化した」というものだ。ヒロインのエロイーズもそんな彼女に同情的、というか同じ目に遭う可能性のあったスペックの人間として、大いに共感を寄せ、「彼女を殺せ」というサンディに殺された大勢の男性幽霊たちの命令には従わない。

 

犯人に同情的か否かというのは異なるが、美しくかよわいように見えた女性がその鋭角的な美しさをナイフの刃先に反映させてさらに輝きを増す、みたいな女性殺人鬼の描き方は、アルジェントに似ていると思う。その点でも影響を受けているのではないか。

 

男性幽霊について言及したので、幽霊表象について革新的だと思った点を少し挙げておく。この幽霊たちはのちに、サンディを買春して彼女に殺された客だと判明する。彼らの見た目で確信的に革新的なのは、世の中の秩序を表す象徴であるスーツを着てることだ。映画の世界の中でスーツを着た青年や壮年男性が通常行うことは、探偵役になり、主観的視点となり、画面を支配することだ。しかしこの映画の視点人物は一貫してエロイーズである。ライト監督は、男性主人公のまなざしによる支配について論じたローラ・マルヴィの論文、「視覚的快楽と物語映画」(1975)を念頭に置いていたのではないか。通常の映画では、秩序をもたらし行動の主体となるスーツを着た男性たちが、エロイーズに見られる客体となっている。また、彼女は"視る"人間であることが作中で何度も強調される。

 

とまあいろいろと面白かったが、最も胸熱だったのが、サンディに最初に殺される人間が彼女のピンプだった"ジャック"であることだ。ロンドンのジャックと言ったら、5人の娼婦を殺した「切り裂きジャック」に決まっている。ジャックに娼婦にされたサンディが彼を殺すことは、フィクションの中で切り裂きジャックに娼婦が復讐するという意味である。ここらへんの歴史改変フィクションは、タランティーノみがある。彼と違って実際に起きた事件を題材にはしてないけれど。

 

だからロンドンだったんだな、と一人合点がいった。

 

ライト監督の過去作『ベイビー・ドライバー』(2017)は、なんと主要キャストの二人(アンセル・エルゴートケヴィン・スペイシー)が若年女性や男性に対する性的プレデターであったことがのちに判明した。強者男性による若年女性の性的搾取とそれへの復讐が描かれた本作は、性的搾取者を重用して映画を撮ったことに対するライト監督なりの贖罪だったのかもしれないな、とちょっと思った。何も気にせずアンセル・エルゴートを主演にするスピルバーグのような監督もいるけれども。

 

最後に指摘しておきたいのは、エドガー・ライト監督が『ホットファズ』等で見せてきた"都会と田舎"観を、本作でもちらっと見せていることだ。コーンウォール出身のエロイーズを田舎者扱いしていろいろと意地悪をするジョカスタがマンチェスター出身と言ってたのはちょっとニヤッとした。鉄道がリヴァプールとの間に世界最初に開業した大工業都市で、コーンウォール出身の人間に対してはマウントをかけられるくらいの都会、ということだろうか(あくまでライト監督の主観だろうが)。マンチェスターといえばハッピーマンデーズだと思ってるので、そんなグループを生んだ土地出身の彼女がクラブで生き生きしてたのに不思議はない。最後の場面ではエロイーズの成功を讃える面子の中に入っておらず、「都会に出てきて挫折した若い女性」の役を彼女が最終的に担ったのか、と解釈した。

(ネタバレあり)あいつはどうクズだったのか?-『六人の嘘つきな大学生』感想

浅倉秋成の『六人の嘘つきな大学生』(2021年、書き下ろし)を読んだ。

 

以下、ネタバレ感想。

 

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IT企業スピラリンクスの最終選考まで残った6人が、震災を理由に内定者を1人まで絞ると宣告され、グループディスカッションでその1人を学生たち自ら選考することになる。会場となった会議室に謎の封筒が置かれていて、6人それぞれが過去犯した罪の告発状であった。30分ごとに区切られた投票システムで内定者を決めるなか、封筒の中身が明らかになるにつれ、1人、また1人と脱落していく。告発をおこなった犯人は誰か、また、誰が内定者になるのか…というサスペンスだ。

 

前半にそれぞれの「罪」が暴露され最悪の人物像が提示されたあと、最後に「罪の実情と、その罪を犯したとされる人の実像」が明らかになる。そして、「こんな罪を犯したけど実はそんなに悪い人間じゃなかった」ことが示される。しかし、最後まで「真の罪」が明示的に示されない人物がいる。ネットを探しても言及してる人がいなかったので、以下、ネタバレしながらその人物が「どうクズだったのか」の考察を行う。

 

前半の語り手である波多野は、告発を行った犯人である九賀により、「新歓コンパの花見での未成年飲酒」の罪を告発される。それは、就活生の親睦会で酒が飲めない蔦の前に、大きなデキャンタを置き飲ませていたことへの意趣返しであった(実は中身はアルコールではなくアルコール分を含まないウェルチであり、酒を飲めない九賀が勘違いしていたことが明らかになる)。

 

九賀が波多野の比較的軽い罪を告発したのは、上述の意趣返しもあったが、ほとんど経歴上のダメージにならない軽い罪に設定することにより、「犯人本人だから自分の告発状には軽い罪を書いたんだ。内定を取るために」と他の者に思い込ませ、告発写真を撮った日付のアリバイがない彼に罪をなすりつけるためでもあった(ほかの人の罪は堕胎強要やいじめ等、陰惨なものである)。

 

偽の犯人に仕立て上げられた波多野の罪は、彼が悪性リンパ腫で亡くなったこともあり、結局最後まで明らかにならない。しかし九賀は「犯人に仕立て上げるために波多野の封筒には花見の写真を入れたけど、本当は彼だって裏でとんでもない非道を働いていた」(p. 228)と当時を聞いて回っている蔦に述べる。

 

そして、波多野が裏で働いていた「とんでもない非道」は明示的には示されない。しかし、以下の二点から、ヒントは示されている。

 

・波多野が借りていたレンタルロッカーから、『ヨウイチ』と書かれたゲームソフトが出てきたこと(この借りパク事件は、前半で自分の罪に思いを至らせた際に、波多野も自己申告している)。

・波多野が面接の場に置かれていた蔦への告発状を持ち去ったこと。

 

物語の前半で、波多野は蔦への告発状を持ち去ったあとに、こう述べている。「どうしても蔦さんの悪事だけは見つけることができなかった。だから自分で封筒を持つことにした。最後で開けなければこの封筒の中身が『空』だってこともバレないから」(154)、「僕は蔦さんに入れる(投票する)」。これを読むだけだと、開封しないことにより蔦の罪を隠すことで、好意を抱いていた彼女を内定者にしようとしたのだと解釈できる。

 

しかし終盤、九賀が告発の犯人であったと物語上で明らかになったあと、波多野のロッカーの下部から、スピラリンクスの人事担当に選考の再考を求める未投函の書面が見つかる。「晴れて内々定となりました蔦衣織氏に対する告発内容が気になっているのではないでしょうか。私が持ち帰った封筒を同封いたしますので、ご確認いただければ幸いです(何を隠そう、グループディスカッションの際には、この封筒を円滑に持ち帰るために、自身が犯人であると罪を被るような発言をしました)」(p. 292-3)。

 

つまり、波多野は蔦を庇うためではなく、人事に蔦の弱点を知らせ、選考会の無効を訴える証拠とするために持ち帰ったのだ。しかし、その後もこの文面を結局人事には送らなかった。、

 

この波多野の行為により、蔦は内々定を手にするが、自分を告発する封筒の中身は何だったのかという疑問に、彼女は何年も苦しむことになる。なにしろ彼女自身には何も心当たりはなかったのだから。

 

『ヨウイチ』と書かれたゲームソフトをロッカーの中に保管していたことから、これは単なる借りパクではなく、意識的に返さなかったことも示唆される。

 

つまり、波多野の罪、というか犯罪的傾向は「人の大事な物を盗んで返さない」「他人の秘密を自分だけのものにし、他人の人生をコントロールする」ことだったのではないか。

 

ただし波多野の罪(犯罪的傾向)は明示的には示されず、あくまで読者が数々の事実から類推できるだけになっている。また、波多野が結局人事に蔦への告発状を送らず、自分は開封もしていなかったことで、彼が完全には悪人と言えない人間だったことも示唆されている。

 

最初は「なんだかぜんぶはっきり種明かしされる訳ではないし、消化不良な推理小説だな」と思った。しかし上記の事実を振り返り、いま流行りの「一粒で二度美味しい」系の、信頼できない語り手が前半を語り、あとからその虚偽が暴かれていく構造の小説なのではないだろうかと思い至った。

 

結論として、非常によくできた推理小説だと言える。

 

(ネタバレあり)原作アップデートとしての換骨奪胎と、瑕疵としての作品無罪論-映画『騙し絵の牙』感想

映画『騙し絵の牙』の感想です。原作と映画、ダブルでネタバレしています。ほぼFilmarksからの転載ですが、映画内の「作品無罪論」についてちょっと補足しています。

 

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塩田武士原作(2017年)からの改変ぶりが凄い。というか舞台となる出版社名と一部のキャラクター名を除き、ほぼ別物だ。原作は大泉洋の当て書きで、大泉洋っぽい台詞を連発するが、映画の方は普通のシュッとした編集者を大泉洋が演じているという体だ。活字の方が本人っぽいというねじれが生じている。

 

キャラクターに沿った改変点は主に以下の通り。

 

佐藤浩一演じる社長の東松、創始者一族の伊庭(いば)家は原作には登場しない。薫風社を一種のファミリービジネスとして描いているのが原作とは異なる。

 

原作のプロローグとエピローグにあった、『トリニティ』編集長・速水輝也と、漫画家をエージェントとなった後輩に取られ編集長から営業職に飛ばされた小山内甫のシーンがない。そのため、エピローグで明らかになる速水の出自も明らかにされない。

 

前述の漫画家エージェントとなった三上は、映画ではオリジナルキャラの社長、東松の部下になっている。

 

女性キャラの改変は概ね上手くいっている。

 

まず、中西という編集部員と高野望の女の嫉妬を軸とした対立は存在しない。これはうまい改変である。なんと言っても観客の半数は女性であり、女性たちは「女の嫉妬」を当然とする作劇には飽き飽きしてりおり、時代のモードもシスターフッド(女性同士の連帯)にあるからである。連帯については、終盤の高野と『小説薫風』江波のあるショットで実現している。

 

高野望が國村隼演じる大作家、二階堂大作の女性観の古さに異を唱える。これは原作にはまったくなかった点だ。原作ではお嬢様である速水の妻早紀子と、速水と不倫する部下の高野望の二人がメインの女性キャラである。速水は自分の仕事を持つことと離婚を望む早紀子の苦悩をから目を背け、望と不倫する。仕事くらいさせてやれよ、と思うほど女性描写が古い。ところが映画では速水の妻と娘は登場しない。それどころか、望が冒頭から二階堂の女性描写の古さを指摘する。速水と不適切な関係にもならない。おそらくこれは、専業主婦である速水の妻と、権力者との性的関係により職場を渡り歩いて来た望という女性描写の古さへの皮肉、とは言わないまでもアップデートである。

 

高野望は原作では作家や上司たちを渡り歩き、速水とも平気で不倫し、罪悪感を抱かないという絵に描いたような「ビッチ」キャラだったが、映画版はまったく違う人間になっている。まず映し出されるのは、松岡茉優演じる望が原作の速水以上の「小説バカ」だということだ。所属先も当初は雑誌『トリニティ』ではなく『小説薫風』の編集者である。彼女が赤を入れ、付箋を貼る姿がこの映画のキービジュアルだと言っていい。

 

また、塚本晋也演じる松岡茉優の父親は、原作には登場しない。彼が細々と営業を続ける零細本屋であることは、この映画のどんでん返しにおいて重要な意味がある。

 

原作では小説家だった久谷ありさが、映画では文芸評論家になっている。小説と読者を媒介する文化人の存在が原作にはなかったので、これは納得の改変である。

 

22年失踪したままの、神座詠一という原作にはない覆面作家が登場する。彼の正体は誰かというのがフックとして存在し、興味を長引かせる。

 

最後に、原作で古巣の薫風社に一杯食わせるのは速水だが、映画では高野望である。原作では、速水は過去に失踪した小説家志望の義父の投稿を待ち望んでいたが大事に育てていた若手小説家の自殺をきっかけにそれを諦め、書籍電子化の時流に乗り、翻訳や資料収集等の作家バックアップ体制を完備した新しい株式会社トリニティを立ち上げる。若手小説家の死の直後に薫風社を辞め、高野望が自分の上司とも不倫関係にあったことを知ったあとの大逆転である。映画では、創業者一族の息子と組んで速水が社長の東松を追い出したあと、Amazonと包括提携し、『トリニティ』を電子化し、Amazonでしか販売しないことにする、という理念なき電子化の流れがある。映画の速水は芯のない「面白至上主義者」として描かれている。それを見て辞表を出した高野望は、幻の小説家神座詠一と組み、新作小説『非A(ナルエー)の牙』を出版し、なんと自分の父親の本屋でのみ販売して、店先に行列を作ることに成功する。

 

これは、原作の速水が電子化の流れに沿ったシステムを構築したのに対し、究極のローカル性への回帰である。「ここでしか買えない本っていうのも十分面白いかなって思って」というわけだ。小規模本屋兼出版社というのは、最近よく見る気がするし、こちらの方が現実に沿っており、なおかつクリエイティブな気はする。

 

本作は、服役中の城島咲に速水が原稿を依頼する場面で終わる。彼が「きっとめちゃくちゃ面白いですよ」と言い、結局はフジテレビ的な面白至上主義に収斂していく結末だが、軍配は明らかに高野望のビジネスモデルに上がっている。小説バカの若手女性編集者が、収益企業と化した出版社とネット流通の巨人Amazonに一矢報いるという結末の方が断然盛り上がる。

 

ほぼ関係者の飲食と会議のみで展開した原作は、字面で読むにはいいが、映画にするには動きがない。映画は原作の内容をほぼ改変し、覆面作家や刃傷沙汰を盛り込んで、ダイナミックな物語を作り出すことに成功している。なによりも、塚本晋也が演じる零細本屋を救ったのがよかった。映画でくらい夢見させてくれてもいいじゃない。

 

まんまと映画製作側に観客としての欲望を読み取られているような気がして癪だが、近来稀に見るいかした換骨奪胎だった。

 

本映画でただ一つ眉を顰めたのは、罪を犯した芸術家の芸術無罪論を唱えている点だ。原作では永島咲という名前だった女優が、映画では池田イライザ演じる城島咲というモデルになっている。原作では彼女が女優初の文学賞受賞者になるが、映画ではストーカーを自作のモデルガンで撃退して犯罪者になってしまう。そのときに速水が、「作者と作品は別物。作品に罪はない」と言い、彼女の雑誌表紙号を強引に刊行し、ヒットを飛ばす。問題は、作品無罪論を唱える文脈である。確かに咲のような正当防衛ならば、作品無罪論を持ち出すのはやむなしだ。しかし実際には、作品無罪論を持ち出される文脈が映画界でいちばん多いのは、関係者の薬物使用や、男性監督や男性キャストの性犯罪が露呈した場合である。そのような現実の文脈を無視し、映画内で「女性が犯罪者になった場合」(しかも正当防衛の余地がある)といったケースを持ち出して「作品無罪論」を唱えるのはいかがものか。その点がこの映画『騙し絵の牙』の唯一の瑕疵に見えた。

 

(ネタバレあり)現実への秀逸なコメントとしての作劇とキャラクター造形の一貫性のなさ-『相棒』シーズン20元旦スペシャル「二人」感想

以下、『相棒』シーズン20元旦スペシャル「二人」についてのネタバレ感想です。

 

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録画視聴した元旦スペシャル「二人」の感想。

まず脚本からの改変について触れておきたい。脚本の太田愛氏のブログによると、デイリーハピネスの本社前で非正規社員がデモをしている「あの場面は、デイリーハピネス本社の男性平社員二名が、駅売店の店員さんたちが裁判に訴えた経緯を、思いを込めて語るシーンでした。」(出典: 「相棒20元日SPについて(視聴を終えた方々へ)」『脚本家/小説家・太田愛のブログ』https://ameblo.jp/gralphan3/entry-12718296806.html)とのことだ。ドラマではピンクの鉢巻をした非正規社員たちが本社ビルの前で待遇改善を求めてデモを行い、社員に「通行人の迷惑になるのでやめてください」と制止されるという風に変更されていた。

元々の脚本にない演出にした理由を考えた。仮に、太田愛氏の脚本通りに演出したとしよう。男性平社員二人が非正規の言葉を代弁するのでは資本側対非正規労働者という対立構造が分かりづらい。非正規の人々自身に労働環境の劣悪さ、正社員との格差を主張させた方が、彼らの意向が視聴者にストレートに伝わる。演出する側は現実の複雑さに対し、二項対立の分かりやすさを選んだのではないか。

最高裁判事の懐柔、それに伴い起こった人死にを平気で秘書のせいにする世襲政治家や、右京さんの説話(すでに説教ですらない)にあった「あなたとあなたのお友達のための」経済というのは、明らかに第二次安倍政権の7年8か月を指している。さすがに腹の据わった社会派ドラマだ。最後の最後で安倍晋三を民衆の友として描いてしまった『アバランチ』とは大違いだ。

ドラマのサスペンスは殺人犯ではなく、「湊健雄」を名乗る記憶喪失の人物の正体が担っている。この老人と新という祖母と暮らす貧困層の少年・新の交流が主に描かれる。こんな若い子にさえ自己責任論が浸透しており、「貧乏なのは努力が足りないせいだ」と語る。上述の政治家袴田は、右京さんに貧困層だって人間だと説諭され、「それこそ、自分でなんとかすりゃいいじゃねえか」とのたまう。公助が機能しない、新自由主義に乗っ取られた自民党政権の罪深さを描いたドラマとして秀逸。

しかし私が「ええ〜」と思った瞬間が、前述のデモの場面以外にもあとひとつあった。川原和久演じる伊丹憲一が、篠原ゆき子演じる出雲麗音に、新の安全確認をやめ、実は最高裁判事であることが判明した若槻正隆を保護するよう命じたことである。その隙に殺人犯である政治家秘書の結城に新と若槻は攫われてしまう。私が知ってる伊丹と出雲なら、危険に晒されるかもしれない少年の監視を簡単に解くことはしない。もともと『相棒』というのは、虐げられた年少者への目線がもっと暖かかったドラマのはずである。刑事部長の内村完爾が正義に目覚めたため、そういう民間人の保護よりも政治的に重要そうな人物を重視する役割を彼に振れなくなったからだろうか。この展開が脚本にあったのか、それともこちらも現場の意志で脚本から改変されたのかは分からないが、キャラクターの一貫性というものをよく考えてほしい。

(ネタバレあり) 現状追認ドラマとしての『アバランチ』

以下、ドラマ『アバランチ』のネタバレをしています。 

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タイトルは"Vigilante"(私刑を加える者)と"avalanche"(雪崩)をかけていたのだろうが、終わってみれば日本の現体制追認に終わる、とんだ腑抜けたドラマだった。

YouTubeで権力者の悪事を暴くという発想はよかったと思うが、現段階で最も不祥事が追及されるべき人物をモデルとしたキャラがいるにもかかわらず、野放しにするどころか民衆の声に耳を傾ける施政者として描いている。

森友問題、赤木ファイル、アベノマスクといった問題が山積みの人物を、よくこんなふうに「悪の官房長官に暗殺されかかった無邪気な最高権力者」として描くな、と心底呆れた。

主人公、羽生誠一が彼に必死で証拠画像の入ったデータ媒体を渡そうとし、それを安倍晋三をモデルとした郷原総理がSPの制止を無視して受け取ろうとする場面を観て、このドラマに対する私の気持ちは見る見る冷めていった。モデルは野次を送った一般人を警察権力を使って排除させた人物でしょうよ。美化が過ぎるぞ。

最終的にジャーナリストがアバランチの元メンバーを取材して、「日常をちょっとよくしたいったいうか…」というような自己実現の文脈に彼らの動機が回収されてしまう。

事実が明らかになったからではなく、大衆(+総理)が彼らの味方になったから勝ち、という「そのとき世論は動いた」的な描き方には大いに疑問がある。彼らの言う「雪崩」とは、ある感情に向けて大衆をコントロールするような陳腐なものだったのか。

リアルな世界で日本の権力者たちはすでに、「あの人のやったことだから正しい」(「アベノマスクは効果があった」)的な個人崇拝路線を推し進めているため、アバランチが動画を公開したところで現実は動かない可能性がある。現にこのドラマだって、「官僚に騙された無邪気な為政者」として安倍晋三を描いた。そういう意味ではこのドラマも現実におけるリアリティ・コントロールから逃れられてはいない。

日本で『ペンタゴン・ペーパーズ』や『スキャンダル』のような現実にある権力をダイレクトに批判するような映像作品が作られる日は遠いのだろうか。

悪役を熱演していた渡部篤郎や、静と動の対比を見事に表現した山中崇といった俳優の存在だけが救いだ。

(ネタバレあり)男性原理と女性原理の相剋-『シン・エヴァンゲリオン劇場版』感想

Filmarksに書いた感想からの転載です。以下、全面的にネタバレしてます。

 

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イスカリオテのマリア」の存在が面白い。みんなシリアスなのに一人だけノリが違ったり。エヴァに乗ることを仕事とか役目と捉えている感じで、ほかの14歳パイロットより悲壮感がなかったり。「ゲンドウくん」呼びなのが不思議だな、と思ってたら、マリ・イラストリアスはどうやらゲンドウとユイと同じ研究室にいたらしい。

 

そしてエヴァパイロットになり、ユイは死んだがマリは何故か生き延び、乗ったことで年齢がそこで止まり、シンジやアスカと同じ立場で働くことになったということか。

 

エヴァの開発に関わっておりしかもパイロットでもあるというのは、エヴァとの関係性がほかの異なっていて当然なのだが、ある時点で冬月とゲンドウを裏切っている。だから「イスカリオテのユダ」であり、シンジと世界を救うことから「マリア」なのだ、と。

 

そういう辻褄合わせの部分より、映像のスペクタクル性が凄くて眼福であった。特に序盤の展開が凄まじいのだが、後半絵コンテにしか見えない部分があり、白抜きの絵が続いたあとにマリが海から登場し、「間に合った」と言う。狙った皮肉か(作画がぜんぜん間に合ってるように見えない)。締切との戦いというアニメ製作への自己言及性を備えた作品だと思うが、最後の最後にまたそれをやっている。

 

ラストショットはリアルにしか見えないドローン撮影で、大人になったシンジとマリが手を取り合って駅のロータリーを走り抜ける。なんというか、ここまであからさまに「現実に帰れ」をやられると「あ、はい」としか言えない(2000年代に安室ちゃんが流行らせた黒いチョーカーを外すシーンも象徴があからさますぎる)。

 

物語内でだんだんと変化していった女性の立場について記しておく。NERVという男性上位の組織からヴィレというレジスタンスが発生する。艦長も副艦長も、NERVで高位にいた女性たちである。また、シンジらが中盤を過ごす第三村で農業に携わる人々には、中年女性が多かった。そして、主人公たるシンジくんはほとんど実戦は行わず、激しい戦闘シーンはマリとアスカが引き受けている。中年女性や若い女性が力を得て高齢男性の作り上げた暴力的世界に抗うという物語展開において、総監督庵野秀明の伴侶である安野モヨコの存在は大きいと思う(彼女はキャラクターデザインやデザインワークに名を連ねており、作中の絵本『オチビサン』の作者でもあり、移動図書館には『シュガシュガルーン』のポスターが貼られている)。彼女は男性や周囲の都合に振り回されず「意志」(ドイツ語で"Wille")を貫き通す女性たちを描き、一世を風靡した漫画家である。

 

プラトンイデア論、聖書におけるアダムとイヴの描写、デカルトやルソーの啓蒙思想ニーチェの超人思想を例に出すまでもなく、西洋思想では長らく「理性」、「意志」は男性の領分、「身体」は女性の領分とされてきた。このアニメではその構造を反転させている。NERV(神経)という組織で有機体とロボットの中間のようなエヴァを作り出していた(つまり今のところ女性にしかできない「産む」という行為を行おうとしていた)のは碇ゲンドウと冬月といった男性たちで、それに対し「自分たちの意志で未来を作る」と反旗を翻したのはミサト、リツコの率いるWILLE(意志)である。西洋思想における男性原理、女性原理を反転させているという点においてもこのアニメは新しい。というか男性は知性、女性は感性といったステレオタイプをぶち壊している。

 

かといってこの物語が男女の分断を煽っていると考えるのは早計である。冒頭、伊吹マヤが作戦行動内で弱音を吐いた部下の男性たちに「これだから最近の若い男たちは」とぼやくが、ヴンダー号内で槍を生成する際、船内に残った若い男性クルーたちを見て同じセリフを今度はポジティブなニュアンスで述べている。物語構造から言って、強力にかつ高圧的に存在し、世界をめちゃくちゃにしようとしている高位の壮年・高齢男性から秩序を取り戻すために、女性と男性は共闘できるという目配せではないか。

 

壮年・高齢男性の支配からの脱却を意識的に描いてもいる。たとえば、母親となったシンジの同級生である委員長とその娘、ツバキと、複製人間である綾波レイの関係が描かれている。綾波はツバキとの関わりや農作業を通じて人間性を獲得していく。つまり、ゲンドウや冬月が絶対に彼女に与えられなかったもの、人間らしい言語や概念を、この委員長とその娘は綾波に獲得させているのだ。

 

そしてシンジもまた、「そっくりさん」と呼ばれていた綾波に新しい名前を付けてくれ、と言われ、「綾波綾波だよ」と、名付け行為を行なっている。ここで彼は「父親」と同じような役割を果たし、碇ゲンドウに打ち勝っている。綾波はシンジの母親ユイの複製なので、シンジは比喩的に母親に命名したことになる。母の父になっている。この瞬間、彼ははっきりと碇ゲンドウを超えたのではないか。

 

このようにこの映画では、絶対的・超越的父性を体現していた碇ゲンドウが間接的に乗り越えられる瞬間がいくつか描かれている。

 

最後にそのやっと殺された父、碇ゲンドウについて述べておく。ほぼ殴り書きのような鉛筆描きの絵柄で過去回想が綴られるゲンドウは、たった一人の女性に会うために世界を道連れにしたという点で、「セカイ系」のラスボスのような存在だ。概念的かつ高邁な人類の救済ではなく、そちらが根底にあった願望だと明かす展開、正しく父殺し。神殺しをする父殺しをする少年の物語だった。ただしこの映画で強烈に生き生きと描かれているのは女性である。シンジはトチ狂った父親に引導を渡す(劇中では「落とし前をつける」と表現される)役割しかほぼ果たしていない。意志の槍を届ける際の自己犠牲、父殺しをした少年の救済と、世界秩序を取り戻すためにお膳立てをするのは女性である。これらの点から、非常にエンパワメント性の高いアニメ映画だと思った。

 

追記: 碇ゲンドウが回想シーンでiPadらしきものを操作してたけど、Appleが初代iPhoneを開発したのは2008年。何回かの「インパクト」なるものを乗り越えて、Apple社はiPhoneを世に出していたという設定なのか?そこでガジェットをアップデートすると世界線が壊れないか?ウォークマンが重要なガジェットとして出てくるのに。そう言えば、『プロフェッショナル』で観た庵野秀明のマシンはMacBook Airであった。