背中の説得力-『ジュディ 虹の彼方に』

二人の子供たちとどさ回りで地方の舞台に上がり日銭を稼ぐオープニングから1947年のロンドン公演の合間に、MGMのプロデューサーやステージママによりコントロールされていた十代の挿話が入る物語構造である。

 

ジュディ・ガーランドは生涯五人の夫を持ったが、どの関係も不毛だったかのように描かれる。彼女が愛を注いだのは、彼らではなく彼らとの間の子供たち三人だ。

 

彼女の歌手としての力量が徐々に示される。初演前のリハーサル時、「(練習する曲の選曲は)あなたのチョイスよ」と言われ躊躇うことなく「虹の彼方へ」のイントロを弾こうとしたバンドリーダーが、数日間の公演後、舞台上で同じ言葉を言われると別の曲を弾き出す。舞台を踏む中で、歌い手としての彼女がマンネリに陥っていないことを知ったからだ。

 

アルコールとドラッグへの依存とステージ・フライトからくる睡眠不足からヘロヘロになった彼女が、突き飛ばされるように舞台へ出た途端、目に生気が戻り昔のように歌い出す。彼女の真価はスタジオの書割やセットの中にあったわけではなく、観客を前にしたステージ上にあったという描写だ。

 

彼女は「観客との愛を信じている」と言う。

 

客席との間にある絆が示されるのは、ステージ上であの代表曲を歌えなくなった瞬間だ。そのときスクリーンの向こうの私たちは、いかに彼女が観客に愛され、待ち望まれていたかを目にすることになる。ここで、ゲイアイコンたる彼女の姿が刻印されている。

 

五人の夫を愛したが、本当に成就したのは観客との愛である。だから『オズの魔法使い』から、「大切なのはいかに多く愛したかではなく、いかに多く愛されたかである」という言葉が引用される。

 

ハリウッドは「虹の彼方」、ジュディの声が彼女を虹の彼方へと連れて行く「ルビーの靴」と重ね合わされている。序盤でMGMのプロデューサー、ルイス・B・メイヤーから「君は普通の女の子のようには生きられない」と呪縛のような言葉がかけられており、実際に彼女が「普通の女の子」のように生きられなかったことを、終盤のミッキー・ルーニーとのエピソードがさりげなく示唆している。

 

上記がこの映画によるジュディ・ガーランドのプレゼンテーションである。

 

伝記映画としてはよく言えば手堅い、わるく言えば凡庸な出来という印象を受けた。主演以外の人物も目立たず、レネイ・ゼルヴィガーの演技をそこに置くためだけにあるような映画である。

 

私が最も感銘を受けたのは、バックバンドの目線から見たジュディ=レネイ・ゼルヴィガーの背中と肩甲骨だ。白く発光する背中はまるで、いまから羽が生えようとしているかのように大きく滑らかに見える。

 

オズの魔法使い』でも、黄色いレンガの道を行くドロシーの後ろ姿があったのを思い出させた。

 

レネイは、舞台に上がるまでと舞台上の演じ分けも凄かった。酒とドラッグとうつ症状でヘロヘロになり、付き人のロンドン娘と並んでも小柄で弱々しく見えた彼女が、舞台の上では強烈に輝いて見えるという演出はベタな対比の手法だが、効果的だ。それまで焦点の合わない目でおどおどしていた彼女の目の焦点が舞台上でギューンと合い、初めて正気を取り戻したかのように見える。彼女が小柄な中年女性のフランシス・エセル・ガムからジュディ・ガーランドになる瞬間は、魔法のようだ。

 

この映画、ロンドン公演の話だし製作には BBCフィルムズが入っている。またレネイのブレイク作はイギリス人女性を演じた『ブリジット・ジョーンズの日記』であり、2016年には『ミス・ポター』で『ピーター・ラビット』の作者ビアトリクス・ポターを演じている。テキサス出身なのに、イギリスに縁のある女優さんである。