高橋一生の頭の形は最高に岸辺露伴だった- NHKドラマ『岸辺露伴は動かない』第一話「富豪村」感想

2020年12月28日から三夜連続で放送される『岸辺露伴は動かない』の第一話「富豪村」を観たんですよ。

 

高橋一生って、あまり荒木飛呂彦の作画っぽくないじゃないですか。だから一抹の不安があったんですが、そんなのは登場して一瞬で吹っ飛びましたね。  

 

高橋一生の鋭角的な刈り上げ、シャープな頭の形、あれは間違いなく岸辺露伴ですわ。

 

荒木作品独特の台詞回し、「〜じゃあない」まで違和感なくキャラクターに馴染ませる発声でした。

 

第一話「富豪村」で最も印象に残ったのは、露伴たちに「マナーの試験」を課す案内役「一究」を演じた柴崎楓雅ですね。眉を塗りつぶして白塗りで演じた彼のルックスが最も奇妙で独特で、出演者の中では最も荒木飛呂彦作画感がありました。

 

それにしても、「全てのマナー違反において最大のマナー違反、それは…マナー違反をその場で指摘することだッ」という露伴の言葉は、マナーを用いたマウントを行う行為への強烈なアンチテーゼにも見えましたね。それを行う一究が何故「案内役」に任命され続けたのかは謎ですが…。

 

衣装にケレン味があり、原作の華やかな世界観を壊さない十分な配慮がなされていると感じました。

「ベルナール・ビュフェ回顧展 私が生きた時代」に行ってきた。

仕事の合間をぬって、Bunkamuraザ・ミュージアムで開催されているベルナール・ビュフェ回顧展に行ってきた。

時系列的な作品展示で、若い頃の作品にはやたらと直線的な人体が蒼白色というか鉛色に塗られている、死体のような絵が続いていた。
しかしアナベルという女性をパートナーとした30歳頃からの作品は、やたら大胆な黒い輪郭線が目立つ感じになっていた。

輪郭線が太すぎて、5cm以上の幅の黒い線が、なぜかキラキラと黒光りしているように見えるものまであった。

無表情なピエロをモチーフとした作品が多い。

もっとも衝撃を受けたのは、《皮を剥がれた人体:頭部》で、剥き出しの赤い頭にパスカル・ロジェの『マーターズ』(2008)を思い出した。

ビュフェの作品群には、シャープでありながら骨太という不思議な印象を受けた。

f:id:Stroszek:20201223214650j:plain
ベルナール・ビュフェ回顧展で購入した絵葉書

余白の勝機-『The Witch/魔女』感想

アマゾンプライムで『The Witch/魔女』(パク・フンジョン監督, 2018)を観ました。以下、ネタバレあり(ネタバレありき?)な感想です。

 

これ、めちゃくちゃ語るべき余白のあるお話ですよね。主役が8歳から19歳にジャンプする、オーディション番組でジャユンが何をしたかわざと見せない、という風にほどよく謎を残したまま話を展開することで、観客に想像の余地を残します。作劇の手際がよく、最後まで飽きさせません。べったりとした説明口調ではないので、キビキビした印象を与える映画です。

 

そもそもク・ジャユンはどうしてあの研究所に入れられたのか。

 

どんな人体改造手術を受けたのか。

 

どうやって本物の母親(と妹)の自宅にたどり着いたのか。

 

研究所での生活と脱出には断片的にフラッシュバック的映像が入るのみにもかかわらず、8歳の彼女がどういう「怪物」だったのか、その断片性こそがありありと証明します。周囲の人間が見た彼女の姿が、それだけ恐怖をもたらす存在だったってことで。効果的な省略法が用いられています。

 

俳優に関して言うと、19歳のジャユンを演じたキム・ダミの演技力も素晴らしいのですが、8歳のジャユンを演じた子役のふてぶてしい面構えに目を引きつけられました。あの年齢で、「本当に人を殺せそうに見える」のは只者ではありません。もちろん監督の演出の賜物でもあるとは思うのですが。

 

すでに続編の製作が決定しているようですが、主役はキム・ダミではないようです。

 

クライマックスのアクションシーンからエピローグで実の母を訪ねるまでに少なくとも2ヶ月は経ってそうで、その間に「いろんなところで大暴れした」とのことなので、アマゾンかNetflixはこの余白をドラマシリーズ化すればいいんじゃないですかね、『ジェシカ・ジョーンズ』的な形で。ジャユンと親友ミョンヒの関係性は、『ジェシカ・ジョーンズ』のジェシカとパッツィっぽいです。ミョンヒが「魔女」というあだ名で呼ばれるジャユンに寄り添う様子に、強烈なシスターフッドを感じました。

 

漫画実写化邦画ベストテン

Washさんの企画「漫画実写化邦画ベストテン」に参加します。
washburn1975.hatenablog.com


1. 『ヒル妖怪ハンター』(1991年)
(原作者:諸星大二郎、監督:塚本晋也、主演:沢田研二

2. 『孔雀王』(1988年)
(原作者:萩野真、監督:ラン・ナイチョイ、主演:三上博史

3. 『1999年の夏休み』(1988年)
(原作者:萩尾望都、監督:金子修介、主演:宮島依里

4. 『オールド・ボーイ』(2004年)
(原作者:土屋ガロン嶺岸信明、監督:パク・チャヌク、主演:チェ・ミンシク

5. 『殺し屋1』(2001年)
(原作者:山本英夫、監督:三池崇史、主演:浅野忠信

6. 『頭文字D THE MOVIE』(2005年)
(原作者:しげの秀一、監督:アンドリュー・ラウアラン・マック、主演:ジェイ・チョウ

7. 『デスノート』(2006年)
(原作者:大場つぐみ、監督:金子修介、主演:藤原竜也

8. 『クローズZERO』(2007年)
(原作者:高橋ヒロシ、監督:三池崇史、主演:小栗旬

9. 『本気のしるし 劇場版』(2020年)
(原作者:星里もちる、監督:深田晃司、主演:森崎ウィン

10. 『ジョジョの奇妙な冒険 ダイアモンドは砕けない 第一章』(2017年)
(原作者:荒木飛呂彦、監督:三池崇史、主演:山崎賢人

三池率が高い。私は今でもジョジョの続編を待ってますからね。
漫画実写洋画ベストテンだったら多分ダニエル・クロウズ原作、テリー・ツワイゴフ監督の『ゴーストワールド』入れてましたね。

曖昧な存在に形を与えるものとしての愛-『本気のしるし』感想

『本気のしるし』をFilmarksのオンライン試写会で観ました。曖昧ですが最後の展開までネタバレしてます。未見の方はご注意。

 

愛することのないまま二人の女と関係を続けている優しいけれども残酷な男が、ひょんなことからある女を助け、そのままゴロゴロと坂道から転が落ちるかのように女の抱える「地獄」に巻き込まれます。

 

2人の関係が進展するにつれ、これまでのだらしなさ、曖昧さのつけを払わされるかのような金銭トラブル、人間関係の地獄絵図が展開します。

 

いつも楽そうなワンピースを着た切り下げ髪の女は、「すみません…」「ごめんなさい…」が口癖で、その見た目も行動もちょっとだらしない感じです。

 

男の方は口調も仕事の仕方もクリアカットで、硬質の印象を与えるのですが、その実、来る者は拒まずな感じで社内の先輩、後輩と付き合っています。

 

そんなだらしなくて曖昧な存在様式の男女が出会い、女の方はある出来事をきっかけにはっきりした存在の輪郭のようなものを獲得し、逆に男は硬質、明晰な立居振る舞いから「死んでるも同然」の薄汚れた生活様式に自らを落とし込みます。

 

その2人が「本気のしるし」を試すイニシエーションを経て、自らの意志で再び生きることを選ぶまでの地獄巡りのような物語だと思いました。

背中の説得力-『ジュディ 虹の彼方に』

二人の子供たちとどさ回りで地方の舞台に上がり日銭を稼ぐオープニングから1947年のロンドン公演の合間に、MGMのプロデューサーやステージママによりコントロールされていた十代の挿話が入る物語構造である。

 

ジュディ・ガーランドは生涯五人の夫を持ったが、どの関係も不毛だったかのように描かれる。彼女が愛を注いだのは、彼らではなく彼らとの間の子供たち三人だ。

 

彼女の歌手としての力量が徐々に示される。初演前のリハーサル時、「(練習する曲の選曲は)あなたのチョイスよ」と言われ躊躇うことなく「虹の彼方へ」のイントロを弾こうとしたバンドリーダーが、数日間の公演後、舞台上で同じ言葉を言われると別の曲を弾き出す。舞台を踏む中で、歌い手としての彼女がマンネリに陥っていないことを知ったからだ。

 

アルコールとドラッグへの依存とステージ・フライトからくる睡眠不足からヘロヘロになった彼女が、突き飛ばされるように舞台へ出た途端、目に生気が戻り昔のように歌い出す。彼女の真価はスタジオの書割やセットの中にあったわけではなく、観客を前にしたステージ上にあったという描写だ。

 

彼女は「観客との愛を信じている」と言う。

 

客席との間にある絆が示されるのは、ステージ上であの代表曲を歌えなくなった瞬間だ。そのときスクリーンの向こうの私たちは、いかに彼女が観客に愛され、待ち望まれていたかを目にすることになる。ここで、ゲイアイコンたる彼女の姿が刻印されている。

 

五人の夫を愛したが、本当に成就したのは観客との愛である。だから『オズの魔法使い』から、「大切なのはいかに多く愛したかではなく、いかに多く愛されたかである」という言葉が引用される。

 

ハリウッドは「虹の彼方」、ジュディの声が彼女を虹の彼方へと連れて行く「ルビーの靴」と重ね合わされている。序盤でMGMのプロデューサー、ルイス・B・メイヤーから「君は普通の女の子のようには生きられない」と呪縛のような言葉がかけられており、実際に彼女が「普通の女の子」のように生きられなかったことを、終盤のミッキー・ルーニーとのエピソードがさりげなく示唆している。

 

上記がこの映画によるジュディ・ガーランドのプレゼンテーションである。

 

伝記映画としてはよく言えば手堅い、わるく言えば凡庸な出来という印象を受けた。主演以外の人物も目立たず、レネイ・ゼルヴィガーの演技をそこに置くためだけにあるような映画である。

 

私が最も感銘を受けたのは、バックバンドの目線から見たジュディ=レネイ・ゼルヴィガーの背中と肩甲骨だ。白く発光する背中はまるで、いまから羽が生えようとしているかのように大きく滑らかに見える。

 

オズの魔法使い』でも、黄色いレンガの道を行くドロシーの後ろ姿があったのを思い出させた。

 

レネイは、舞台に上がるまでと舞台上の演じ分けも凄かった。酒とドラッグとうつ症状でヘロヘロになり、付き人のロンドン娘と並んでも小柄で弱々しく見えた彼女が、舞台の上では強烈に輝いて見えるという演出はベタな対比の手法だが、効果的だ。それまで焦点の合わない目でおどおどしていた彼女の目の焦点が舞台上でギューンと合い、初めて正気を取り戻したかのように見える。彼女が小柄な中年女性のフランシス・エセル・ガムからジュディ・ガーランドになる瞬間は、魔法のようだ。

 

この映画、ロンドン公演の話だし製作には BBCフィルムズが入っている。またレネイのブレイク作はイギリス人女性を演じた『ブリジット・ジョーンズの日記』であり、2016年には『ミス・ポター』で『ピーター・ラビット』の作者ビアトリクス・ポターを演じている。テキサス出身なのに、イギリスに縁のある女優さんである。

金持ち一家と貧乏一家の違いは何か?-『パラサイト 半地下の家族』感想

貧乏家族と金持ち家族の対比は、まず自宅の描写からなされる。

 

繁華街の半地下に住む貧乏家族と、坂の上に住む金持ち家族。

 

トイレが目線の上にある半地下に住む家族と、自由な平面遣いのモダニズム建築に住む一家。

 

しかし思いの外、共通点もある。

 

どちらもあまり親族関係は描かれない。

 

貧乏家族はアイデンティティを偽るときに存在しない親族の話はするが、援助をしてくれるような親族の存在は感じられない。

 

金持ち家族も父母とその子供たちだけの核家族である。父親がIT企業で身をおこしたようで、特にどちらかの実家が太かったような描写はない。キャンプやガーデンパーティーを好むアメリカナイズされた生活様式からは、ベンチャー成金であることがうかがえる。

 

友人からもらった得体の知れない岩を何かのジンクスのように持ち歩く貧乏家族の長男。


「幽霊が出るのは商売にいいことだ」と言う金持ち家族の父親。


どちらも迷信深い。


また、韓国社会の中で英語が重要視されていることが分かる。留学経験や外国での勤務経験が高く評価されている。


長男は兵役期間を挟んで4回ソウル大学を受験して落ちており、受験英語の勉強経験を買われて家庭教師となる。


金持ち家族の母親は、ところどころに英語のフレーズを織り混ぜるが、ネイティブレベルの流暢さではない。


家政婦でさえも「エニタイム」といった英単語を用い、家政婦の夫が社長に言う言葉は「リスペクト!」だ。


これにはハリウッド市場を視野に入れた戦略以上の監督の意図を感じる。


貧乏一家はアイデンティティを偽るが、金持ち家族の長男もまた、天才肌の芸術家を装っている。


しかしこの物語は、両家族のそのようなパラレル関係に綺麗にはおさまらない。


ちょっと話の均衡が崩れたと思うのは、終盤の襲撃で死ぬのが貧乏家族側は長女だけということだ。運転手の地位を取った父親、家政婦になり変わった母親、そして留学中の友人から金持ち家族の「お兄さん」の地位を横取りした長男とは違い、彼女は直接的には誰の地位も奪ってはいない。トラブルを抱えた年少の男の子に対応できる彼女だけは、金持ち家族が真に必要としていたかもしれない人物かつ、貧乏から抜け出して本物の金持ちになるかもしれなかった才気あふれる人物である。


この映画には語られていない数々のことがあるのも、想像の余白を残している。


たとえば消毒剤を箱に吹きかけられたピザ屋はどうなったのか。

 

貧乏一家の長女がどうやって金持ち家族の長男の敬意を得るにいたったか。


貧乏家族の長男が金持ち家族の長女に喩えた花の名前。


貧乏家族の長男が盗み読みした金持ち家族の長女の日記に、何が書かれていたのか。


父親を失った金持ち家族がどうなかったか。


連続ドラマなら「美味しい」と言えるようなそれらのディティールは、監督の言いたいことにとっては些末なこととばかりに省略される。


しかしひとつだけはっきりと分かるほのめかしがあった。


家政婦の夫が豪邸の半地下から送り続けていた「助けて」というモールス信号に、アメリカ製のテントで遊ぶ金持ち家族の長男は気づいていた。それをずっと無視していたということだ。そこに金持ちと貧乏人の断絶を最も感じた。

 

しかしそんなにこの両家族は違うだろうか。

 

社長も貧乏家族の父親も、IT企業と台湾カステラという違いはあるが、事業を起こした起業家である。決定的に異なるのは、それが成功したか否かだ。


金持ち家族の夫婦が数年前まで地下鉄に乗っていたということは、彼らが成金だということだと思う。金で買えるものしか持っていないこと、世襲の財産がある一族のようには古いお屋敷に住んではいないこと、裕福な親戚への言及がないこと、海外留学者への盲目的な信頼など、ベンチャー企業の社長一家という感じがする。清潔な環境へのこだわりにも、新興上流階級っぽさを感じる。

 

なにより、使用人を取っ替え引っ替えし、消耗財産のように扱う点に新しく財産を成した人の印象を受けた。家政婦や運転手のつてがないのはその象徴である(古い金持ちだったら実家から紹介してもらえるだろう)。


だからポン・ジュノは、二つの家族の違いを所有する可処分所得以外にはないように描いていたのではないか。


最後に貧乏家族の長男は、「根本的な計画があります。まずは金を稼ぐことです」と言う。彼が言う「計画」には、「計画がある」が口癖だった父親のそれと同じくらい具体性も実現可能性もない。


ここで思い出されるのは、金持ち家族が長男の誕生日に開いたガーデンパーティである。あの当日になって立案、計画、実施された会は、金と人脈と時間があるからこそ可能になった。金があるから可能になることは多いが、金を稼ぐために学歴もつてもない貧乏人ができることは少ない。ピザの箱を折る低賃金の仕事か、身分を偽ってあるところから騙し取ることくらいである。それを2時間半見せられたあとで、「計画があります。金を稼ぐことです」と聞かされるとは思わなかった。


格差社会をこういう風にエンターテインメント化していることに批判の向きはあるが、「金を稼ぐしかない」という、一周回ってようやく常人のスタート地点に立ったかのような結末には驚愕せざるを得ないはずだ。