(ネタバレあり)やせた土地と現実逃避としての「ストーリー」ー『ドリームランド』感想

Filmarksの試写で『ドリームランド』を観ました。
以下の感想はネタバレですので、未見の方は注意です。

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不毛な土地で暮らす17歳の少年ユージンと、彼に匿われる負傷した女強盗アリソンの話です。

この物語では、土地と個人が物語る「ストーリー」が非常に大きな意味を持っています。

まず土地について述べます。
テキサス州ウィチタ郡にかつて存在した町ビズマークが舞台で、エンドロールによると、ロケはすべてニューメキシコで行ったそうです。
作物の見えない黄土色と茶色の画面から、土地の干からびた様子が伝わってくるばかりではなく、ときには激しい砂嵐が吹き荒れます。ビズマークはもともと痩せた土地である上に、干ばつで土地が干上がり町の人々は苦労しているという設定です。

そんな中で主人公のユージンは、5歳のときに自分と母を捨てた実父が向かった先、メキシコへの憧れを持ちながら暮らしています。
アリソンと銀行強盗のパートナーで恋人だったペリーもまた、メキシコへの逃亡を目指していました。

退屈していたユージンの逃避願望をアリソンは明敏に見抜き、逃亡の手助けをさせようとします。

土地に次ぐ物語上の重要点が「お話」です。
まず、実父がユージンを魅了したのは、メキシコが「地上の楽園」であることを伝えるポストカードによってです(この虚飾はのちに暴かれます)。
ユージンは現実逃避のために、納屋で探偵小説の雑誌を読んでいます。
アリソンがユージンを魅了するのも物語によってです。
脱出、逃亡のためにユージンの心を掴もうと必死な彼女は、銀行強盗の自らを英雄として語り、ミズーリ州の痩せた土地で育ち両親はすでに亡くなっていると、ユージンと同じような境遇であることを訴えます。

外の世界へ出たいユージンと車がなければ逃げきれないアリソンの利害は一致します。
のちに彼と彼女は、「一緒に海を見る」という夢によって結ばれます。
この映画ではしばしば、フィルム撮影のメキシコの海のショットが挿入されます。
二人がメキシコ行きを決意してからは、その頻度が増えます。
「海ですべての罪を洗い流す」という「お話」を二人が共有したことを意味するのでしょう。
彼らにまとわりつく厳しい現実は、激しい砂嵐によって比喩的に表現されています。

重要なのは、アリソンがユージンを連れ回したことではなく、彼が自発的に彼女についていったことです。
アリソンは劇中二度、"Choice was yours"、"Your choice"(「あなたの選択」)と言います。
彼は彼女を愛しているという「ストーリー」に囚われてしまったのでしょう。

実父から兄へ、兄から自分へ受け継がれた喪失感を基に「ストーリー」を語ると、語り手であったユージンの義妹フィービーは最後に述べます。

劇中にビリー・ザ・キッドの話が出てきたとき、アリソンは「人が死ぬのは忘れられたときだ。思い出される限り、その人は生き続ける」と言います。実体ではなく、思い出=物語が重要だと述べているのです。

しかしこの物語では2回、ユージンの「お話」からの幻滅が描かれます。
1つ目は、メキシコへ行った実父が本当はどうなったのか母親に聞いたとき。
2つ目は、アリソンが犯した許し難い罪を知ったとき。

彼は希望を持って逃げた先でもダメなものはダメであることを思い知らされます。
そのことが、彼が終盤に一線を越えた(妹に当たるかもしれないのに拳銃を撃った)遠因にもなっているのではないでしょうか。

この映画で、希望の物語への憧れは、家族の形と一人の少年の人格を根本から変えます。
他人の持つ物語を見つめるだけではなく、自分が妹にいつまでも思い出される物語に変わってしまった瞬間に、ユージンは姿を消します。
彼は大きな代償を払い、逃亡者としての人生という自分の物語を生きることになりました。
その代償をアリソンが一手に引き受けさせられるのは納得が行きませんでしたが。

若冲と大典-『ライジング若冲』観ました。

録画していたNHKの正月時代劇、『ライジン若冲』を観ました。

 

芸術の追求を通じて繋がった絵師と僧侶の物語でした。

 

「あんたの絵を通して宇宙を、仏を見たいんや」と、若冲の手を握りしめて相国寺の有望な僧侶、大典が言います。それがプロポーズのようになっています。

 

若冲が描いた、白い尾羽の先がハートになった優美な鳳凰の絵の前で、白無垢的衣装を着た若冲と黒い紋付き的衣装(僧衣ですが)を着た大典が、「死が2人を別つまで」友でい続ける誓いを立て、象徴的結婚式を行うという、非常に分かりやすいBL演出でした。

 

中村七之助の普段はたおやかながら、絵に集中するときは神さびたアウラをまとう若冲と、優秀であるが故に僧として期待され、詩に打ち込むことができず鬱屈した激情をたたえる永山瑛太の大典、よかったです。

 

尺の都合もあると思うのですが、円山応挙池大雅の絵ももっと見せてほしかったですね。特に応挙は、「自分の足元を照らしてくれる人がいない」と泣きながら大典と若冲の仲を羨ましがっていたのに、その伏線は回収されることなく最後に絵師番付で一位取って満足して終わりって。連続ドラマで描くべきエピソードを詰め込みすぎたのではないでしょうか。

 

大雅の妻であり自身も絵師である玉瀾の見せ方はあれでよかったのか、と疑問が残りました(大雅の髪を梳ったり残り少ない米を食べさせるケア要員として登場、「旦那様が好きだから、画風が旦那様に似る」と言う)。

 

そのときそのときの好きな場所で野点をして、客からお茶代を取る売茶翁(石橋蓮司)の働き方(移動式茶店)が、職場=自分がいるところのテレワーク時代の気分にフィットしているように感じました。 

 

最後に「え、皇室、廃仏毀釈のとき取り上げた若冲の絵は相国寺に返還すればいいのにー」と思いましたね。

ふんわり彼氏と色彩の炸裂ーNHKドラマ『岸辺露伴は動かない』第三話「D. N. A」感想

NHKドラマの『岸辺露伴は動かない』第三話「D. N. A」を観ました。

いやー、三話目にしてめちゃくちゃ「作画・荒木飛呂彦」な人が出てきましたね。
片平真依を演じた瀧内公美さんです。
線の太い顔と意志の強そうな眼差し、ポンパドールを2つ、センター分けにした四角い髪型。
最高にジョジョ実写化感がありました。

物語は、言葉を逆さまに話し、ぬいぐるみで固めたピンクのテントに隠れて過ごす5歳児、真央とその母親、真依が、ひょんなことから記憶をなくした写真家、平井太郎と出会い、母娘と太郎の奇妙な縁が明らかになっていく、というものです。

今回、岸辺露伴狂言回し的な感じです。「ヘヴンズ・ドア」を使って人を読むときは顔が本になるのではなく、なんと人が本そのものになっています。露伴はこの回、人の顔ではなく物理的な本(本に形を変えた人なんですが)を読みます。そのため、「何かと闘う」という感じではなく、不可視だったものを解読し、解説する、という役回りになっています。

岸辺露伴が真央の特性を「彼女の個性だ。何も異常はない」というのはよかったですね。「奇妙なもの」に対する耐性が違います。

真依が真央をファブリックで包むのは世間から普通とは違う彼女を隠そうとしているのですが、布がピンクや清潔で明るいパステル系の色で、彼女を忌むべきものではなく傷つけられたくない大切な存在だと思っているから、というのが分かる演出でした。彼女たちの明るい色彩に満ちた暮らしぶりが、記憶をなくした平井太郎の透明な存在感と繋がるんですよ。そして彼が最後に撮る写真は、彼女だった編集者の泉京香が好きだった、都会の暗い風景を写した作品とは違う「ほのぼのした感じ」に変わっていた、というのはオチがついています。つまり、質感の合流によりすべてを語っているエピソードでした。

このドラマ、衣装部の仕事には毎回感銘を受けていましたが、最終回にして衣装と色彩の整合性・生合成こそが物語の意味的主役と言える役割を果たしており、素晴らしかったです。

来年末にも続編があることを熱烈に希望しますね。

森山未來の身体表現ーNHKドラマ『岸辺露伴は動かない』第二話「くしゃがら」感想

NHKドラマ『岸辺露伴は動かない』の第二話、「くしゃがら」を観ました。

行方不明となった担当編集者に渡された使用禁止用語リストに載っていた「くしゃがら」という言葉に取り憑かれた漫画家、志士十五を、森山未來が怪演していました。

IKEAのショッピングバッグみたいな大きい青いズタ袋を持ち、ホーボーのような風体の志士十五は、登場時点からかなりハイテンションかつ他人の話を聞かない、人を食った人間です。

それでも当初あった飄々とした軽快さは「くしゃがら」に取り憑かれてから消え去ります。
床を這いずり回り資料を舐めるように調べる姿は、問題となっている奇妙な単語の具現化のようでした。
特殊効果を使わないであれだけ「憑依された人間」感を表現できるのは、彼の並外れた身体の動きがあってこそのことでしょう。

一話目はスタンドそのものを見せなかったのですが、二話目は「くしゃがら」の恐ろしい姿を見せます。
その正体は「言葉」そのもので、関心を持った人間に伝染するという、Jホラー的な展開でした。

菊池成孔の不穏な弦楽も、恐怖を有機的に増幅させているようでよかったです。

それにしてもこのドラマ、衣装部がいい仕事しています。
荒木飛呂彦の原作はカラフルな色彩が特徴的ですが、このドラマ化での露伴はモノクロの衣装がベースになっているんですよね。主演の高橋一生のモード系が似合う体型にぴったりだと思いました。

あと、一度だけ挿話的に中村倫也が登場したときの画面の透明感が半端ないです。
記憶をなくした写真家、平井太郎役なのですが、彼の虚ろさがそれ以外のパートで展開するドロドロしたホラーの、一服の清涼剤のように機能していました。

当世一の役者陣を適材適所に配置しているドラマだなあ、と思いました。

高橋一生の頭の形は最高に岸辺露伴だった- NHKドラマ『岸辺露伴は動かない』第一話「富豪村」感想

2020年12月28日から三夜連続で放送される『岸辺露伴は動かない』の第一話「富豪村」を観たんですよ。

 

高橋一生って、あまり荒木飛呂彦の作画っぽくないじゃないですか。だから一抹の不安があったんですが、そんなのは登場して一瞬で吹っ飛びましたね。  

 

高橋一生の鋭角的な刈り上げ、シャープな頭の形、あれは間違いなく岸辺露伴ですわ。

 

荒木作品独特の台詞回し、「〜じゃあない」まで違和感なくキャラクターに馴染ませる発声でした。

 

第一話「富豪村」で最も印象に残ったのは、露伴たちに「マナーの試験」を課す案内役「一究」を演じた柴崎楓雅ですね。眉を塗りつぶして白塗りで演じた彼のルックスが最も奇妙で独特で、出演者の中では最も荒木飛呂彦作画感がありました。

 

それにしても、「全てのマナー違反において最大のマナー違反、それは…マナー違反をその場で指摘することだッ」という露伴の言葉は、マナーを用いたマウントを行う行為への強烈なアンチテーゼにも見えましたね。それを行う一究が何故「案内役」に任命され続けたのかは謎ですが…。

 

衣装にケレン味があり、原作の華やかな世界観を壊さない十分な配慮がなされていると感じました。

「ベルナール・ビュフェ回顧展 私が生きた時代」に行ってきた。

仕事の合間をぬって、Bunkamuraザ・ミュージアムで開催されているベルナール・ビュフェ回顧展に行ってきた。

時系列的な作品展示で、若い頃の作品にはやたらと直線的な人体が蒼白色というか鉛色に塗られている、死体のような絵が続いていた。
しかしアナベルという女性をパートナーとした30歳頃からの作品は、やたら大胆な黒い輪郭線が目立つ感じになっていた。

輪郭線が太すぎて、5cm以上の幅の黒い線が、なぜかキラキラと黒光りしているように見えるものまであった。

無表情なピエロをモチーフとした作品が多い。

もっとも衝撃を受けたのは、《皮を剥がれた人体:頭部》で、剥き出しの赤い頭にパスカル・ロジェの『マーターズ』(2008)を思い出した。

ビュフェの作品群には、シャープでありながら骨太という不思議な印象を受けた。

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ベルナール・ビュフェ回顧展で購入した絵葉書

余白の勝機-『The Witch/魔女』感想

アマゾンプライムで『The Witch/魔女』(パク・フンジョン監督, 2018)を観ました。以下、ネタバレあり(ネタバレありき?)な感想です。

 

これ、めちゃくちゃ語るべき余白のあるお話ですよね。主役が8歳から19歳にジャンプする、オーディション番組でジャユンが何をしたかわざと見せない、という風にほどよく謎を残したまま話を展開することで、観客に想像の余地を残します。作劇の手際がよく、最後まで飽きさせません。べったりとした説明口調ではないので、キビキビした印象を与える映画です。

 

そもそもク・ジャユンはどうしてあの研究所に入れられたのか。

 

どんな人体改造手術を受けたのか。

 

どうやって本物の母親(と妹)の自宅にたどり着いたのか。

 

研究所での生活と脱出には断片的にフラッシュバック的映像が入るのみにもかかわらず、8歳の彼女がどういう「怪物」だったのか、その断片性こそがありありと証明します。周囲の人間が見た彼女の姿が、それだけ恐怖をもたらす存在だったってことで。効果的な省略法が用いられています。

 

俳優に関して言うと、19歳のジャユンを演じたキム・ダミの演技力も素晴らしいのですが、8歳のジャユンを演じた子役のふてぶてしい面構えに目を引きつけられました。あの年齢で、「本当に人を殺せそうに見える」のは只者ではありません。もちろん監督の演出の賜物でもあるとは思うのですが。

 

すでに続編の製作が決定しているようですが、主役はキム・ダミではないようです。

 

クライマックスのアクションシーンからエピローグで実の母を訪ねるまでに少なくとも2ヶ月は経ってそうで、その間に「いろんなところで大暴れした」とのことなので、アマゾンかNetflixはこの余白をドラマシリーズ化すればいいんじゃないですかね、『ジェシカ・ジョーンズ』的な形で。ジャユンと親友ミョンヒの関係性は、『ジェシカ・ジョーンズ』のジェシカとパッツィっぽいです。ミョンヒが「魔女」というあだ名で呼ばれるジャユンに寄り添う様子に、強烈なシスターフッドを感じました。