オートミールくらい作れよ−『ブルー・バレンタイン』感想

(Dir. Derek Clanfrance, Blue Valentine, 2010. アメリカ)

あるカップルの一日を、結婚するまでの数ヶ月と離婚するまでの24時間と交差させて描いた映画。二人の始まりと終わりが叙情的な映像で描かれる、とても美しい映画だった。以下、ネタバレ感想。


朝の風景から見られる夫婦の関係:

ある夫婦の朝の風景から映画は始まる。妻のシルヴィが仕事前の忙しい時間に鬼気迫る表情で娘のフランキーに食べさせるオートミールを用意しているあいだ、夫のディーンは子供の相手をしている。娘の面倒を見ているようで、ディーンは遊び相手になっているだけである。ここに、ディーンの人生すべてに対する姿勢が凝縮されている。

ディーンに任せるといつになっても出られるかわからないから、シルヴィが準備していることが、映画が進みディーンという男を知るにつれ、観客にもわかってくる。子育てを手伝っているようで、微妙に手伝っていない。車を所有しているのにもかかわらず、幼稚園に送っていくのは忙しいはずのシルヴィである。

なぜこの夫婦がこのようになってしまったのか、徐々に判明する。娘は実はディーンの子ではなく、大学生時代にシルヴィが体育会系のボーイフレンドに避妊なしのセックスで孕まされた子だと判明する。したがって、シルヴィには子供の面倒を思ったように見てくれなくても、ディーンに文句は言い辛い状況である。ディーンはディーンのやり方で子供の面倒を見ているのだけれども、「育てる」というよりは、「一緒に遊ぶ」という感じでしかない。


女性のキャリア・ダウンの問題:

大学時代は医者志望だったシルヴィは、おそらく出産のために勉強を中断させられたためか、看護士として働いている。職業に貴賎はないというが、より専門性(従って収入も)高く、決定権もある仕事から、それをサポートする仕事へとキャリア・ダウンさせられたことは確かだ。キャリア・アップを餌に愛人になるよう上司の医者に迫られたり、あっさりと頸にされる立場に甘んじている。

車を運転しながらゼリーの簡易食料を流し込むシルヴィと、同じく車を運転しながら酒を飲むディーンのカットが交差する。追い詰められた表情で日々を忙しく生きるシルヴィと、酒に溺れるディーン。

なぜこの二人はこうなってしまったのか。


大人になったら遊んだらいけないのか?:

劇中、まだ禿げてはおらず、サングラスで目を隠してもいないディーンのよかったときの姿が映し出される。シルヴィがそれを思い出していることが判明する。老人ホームに入居したおじいさんの部屋を、素敵に装飾してあげるディーン。街中でウクレレを弾いて楽しませてくれるディーン。

ラブホテルでそんなディーンの素敵な姿を思い出し、「なにかしたいことはないの?」と聞くシルヴィ。彼女は「才能を活かす仕事をしてほしい」と願っているだけなのに、ディーンにはそれが「働け」と責められているようにしか感じられない。

なにも考えずに場当たり的に物を言ってしまうディーン。シルヴィにはその姿がかっこうだけ、口だけのように見える。

「娘と一緒に遊んでないで(早く朝食を食べさせて)」とシルヴィが言うと、「大人になったら遊んだらいけないのか?」とディーンは聞く。「社会と関わり、収入を得る」という大人の役割をシルヴィ一人に負わせ、自分は太平楽に生きているのに気づいていない。

彼が作った歌にもあるとおり、「二人だけの世界」に生きているから。

老人ホームでこれから暮らす男性のために、部屋をデコレートしてあげるディーン。ここはディーンの良さとともに、社会人としてのダメさを表す場面でもある。ディーンが部屋をアレンジしてあげている間、何度も引越屋の同僚が「もう時間だぞ」「次の仕事が待ってる」と呼びに来る。本当におじいさんのためになりたいと思っているのなら、自分の空き時間に戻ってきてやるべきなのだ。ただ単に、「おじいさんの喜んでいる顔が見たいから」という自己満足のために、割り当てられている作業時間を超過してまで部屋を飾ってあげたのである。

このように実務的ではないディーンは、他人のペースに合わせて作業しなければならない引越屋ではうまくやっていけなくなったのか、シルヴィとの結婚後はペンキ屋として一人で働いている。

大人になっても遊ぶのは結構なことだが、周りの人間に迷惑をかけない範囲でやるべきじゃないか。


おばあちゃんの教訓:

シルヴィにはハーレクイン小説(『ナイト・アンド・デイ』『RED』に続いてまた!)を読み聞かせてあげているおばあちゃんがいる。お返しのように、おばあちゃんはシルヴィに「女の人生は男で決まる。ちゃんと選ばなきゃ」という教訓を与える。

知り合って最初のデートで、じゃれあううちに路上に倒れこむ二人。周囲の人間の目もはばからず、石畳の上でほんとうに気持ちよさそうにディーンの腰を足で挟んでいるシルヴィ。ここからシルヴィの貞操観が垣間見える。13歳で処女を喪失し、20歳になるまでに経験した人数は25人以上いる。

おばあちゃんの教訓がまったく活かされていない。それにしても、男性は経験した人数をロマンのように誇れるのに、女性は望まない妊娠、キャリア・ダウンのリスクに晒される。女性の人生ってなんなんだろうと思ってしまった。


ホワイトカラーの男性を選んだからといって幸せになれるわけではない:


では、シルヴィは父親のようなホワイトカラーの男性を選べばよかったのか? 決してそうではないことは、母親の料理にキレる父親からも見て取れる。*1また、将来有望そうな大学出の体育会系の男子を選べばよいのかというと、そうでもないことは、避妊なしの無責任セックスで彼女を妊娠させた元カレのボビーを見れば分かる(もっとも彼は卒業後定職に就けずぷー太郎をしているようだったが)。


なぜディーンはシルヴィとの結婚生活における責任を負わないのか:

シルヴィは「(スーパー店内で)ボビーに偶然会った」と笑いながら話す。彼女にとっては彼は過去の男に過ぎず、娘の生物学上の父親とは言え、なんの感情的つながりもない存在である。しかしそれにディーンは敏感に反応する。「俺に妊婦を押しつけ、しかも職場に殴りに来た勝手な男」、「やはり大学出の知的レベルが同じの男と一緒になったほうがよかったとシルヴィは思っているのではないか」という不安など、ぐちゃぐちゃとした感情が入り混じっているのだと思われる。だから「彼は負け犬("He is a loser")だったわ」とシルヴィが言うと、「俺が気にしてると思ってるのか?」とキレるのだ。彼の目には「(シルヴィとのセックスだけ楽しんで)いい思いだけして、人生の苦労を背負わずに逃げきった羨ましい男」なのかもしれない。


ディーンは気づいていないけれども、「ほかの男の子を孕んだ妻とその子」を、背負いきれていないのだ。だからことさらに家庭生活における負担を避け、楽しく飲んで暮らそうとしているのである。


なぜ結婚生活は破綻したのか:

重要なのは、この二人は結婚したときと基本的には同じ人間であるということが、その仕草や癖から暗示されることだ。ディーンは感情でいっぱいになったときには近くにある物を叩くし*2、シルヴィはセックスがしたくなったときには男の腰に足を回す。これは結婚する前も離婚を決意する直前も変わらない。しかし、路上でディーンの腰に絡み付いていたときのシルヴィは気持ちよさそうな笑顔を浮かべていたのに対し、ラブホテルで嫌々ながらディーンとのセックスを早く済ませようとしてとしていたときは、嫌なものを無理やり飲み込むような疲れきった表情をしているし、拳を握り締めている。

人間も変わらず、セックスのやり方も同じなのに、なぜ二人の心が離れてしまったのか。
お互いに我慢できないくらいになってしまったのか。

よく知らないまま結婚してしまったからとしか言いようがない。話が通じなくなっているのではなく、最初から話が通じてはいなかったのだ。結婚生活のなかでお互いを知り、幻滅してしまったことだろう。

どこにでもある、平凡な夫婦の話なのだ。ではなぜこの平凡な夫婦の破綻までを描いた話が観客を魅了するのか。


この映画の見所:

この映画が最後まで魅せるのは、主演のライアン・ゴズリングとミシェル・ウィリアムスの熱演のおかげである。それぞれ年月の経過を表現するために、禿頭の髭面となってだらしない中年男となったり、体重を増やして顎のたるんだ中年女になったりしている。どこにでもある、つまらない夫婦の、平凡な日常が破綻するまでの物語なのに、サスペンスを継続しているのは、この二人のなかの「いい思い出」(若くお互いに夢中だったころ)と「いま生きている日常」(お互いに疲れた中年夫婦)の交差の仕方が絶妙だからである。

この映画を観た男性の友人は、シルヴィの同僚看護士が彼女に「洗脳されないで!」と言う場面がいちばんきつかったそうだ。若かったときの二人のイメージ映像を見ている観客は、ディーンがそんなことができるような人間だとは思わない。しかし愛し合っていたときではなく現在の二人しか知らない同僚看護士の目にはそう写ってしまう。カップルにはそれぞれ二人にしか共有していない歴史があり、その歴史が目の前で崩れていくのを、主人公たちの立場で目の当たりにさせられているような、臨場感のある映画だった。

ある平凡なカップルの感情の歴史だけでここまでのサスペンスを作れるのは凄いと思った。お勧めです!

*1:彼女の家族は、いつ癇癪を起こすか分からない父親のもと、ビクビクしながら暮らしており、ここにも壊れたひとつの家族の姿が見られる。

*2:シルヴィの妊娠が発覚し、彼女が「堕胎する」と宣言した際に、ディーンは線路脇のフェンスをガンガン殴る。背を向けて立ち去るシルヴィは、電車の騒音に遮られ、ディーンの粗暴な振る舞いに気づかない。結局シルヴィは堕胎せずディーンと結婚するのだが、この線路脇の下りは、自分の妊娠でパニックになったシルヴィが、ディーンがどんな人間かもよく分からず結婚してしまう経緯を、うまく表現していると思った。