(ネタバレあり)男性原理と女性原理の相剋-『シン・エヴァンゲリオン劇場版』感想

Filmarksに書いた感想からの転載です。以下、全面的にネタバレしてます。

 

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イスカリオテのマリア」の存在が面白い。みんなシリアスなのに一人だけノリが違ったり。エヴァに乗ることを仕事とか役目と捉えている感じで、ほかの14歳パイロットより悲壮感がなかったり。「ゲンドウくん」呼びなのが不思議だな、と思ってたら、マリ・イラストリアスはどうやらゲンドウとユイと同じ研究室にいたらしい。

 

そしてエヴァパイロットになり、ユイは死んだがマリは何故か生き延び、乗ったことで年齢がそこで止まり、シンジやアスカと同じ立場で働くことになったということか。

 

エヴァの開発に関わっておりしかもパイロットでもあるというのは、エヴァとの関係性がほかの異なっていて当然なのだが、ある時点で冬月とゲンドウを裏切っている。だから「イスカリオテのユダ」であり、シンジと世界を救うことから「マリア」なのだ、と。

 

そういう辻褄合わせの部分より、映像のスペクタクル性が凄くて眼福であった。特に序盤の展開が凄まじいのだが、後半絵コンテにしか見えない部分があり、白抜きの絵が続いたあとにマリが海から登場し、「間に合った」と言う。狙った皮肉か(作画がぜんぜん間に合ってるように見えない)。締切との戦いというアニメ製作への自己言及性を備えた作品だと思うが、最後の最後にまたそれをやっている。

 

ラストショットはリアルにしか見えないドローン撮影で、大人になったシンジとマリが手を取り合って駅のロータリーを走り抜ける。なんというか、ここまであからさまに「現実に帰れ」をやられると「あ、はい」としか言えない(2000年代に安室ちゃんが流行らせた黒いチョーカーを外すシーンも象徴があからさますぎる)。

 

物語内でだんだんと変化していった女性の立場について記しておく。NERVという男性上位の組織からヴィレというレジスタンスが発生する。艦長も副艦長も、NERVで高位にいた女性たちである。また、シンジらが中盤を過ごす第三村で農業に携わる人々には、中年女性が多かった。そして、主人公たるシンジくんはほとんど実戦は行わず、激しい戦闘シーンはマリとアスカが引き受けている。中年女性や若い女性が力を得て高齢男性の作り上げた暴力的世界に抗うという物語展開において、総監督庵野秀明の伴侶である安野モヨコの存在は大きいと思う(彼女はキャラクターデザインやデザインワークに名を連ねており、作中の絵本『オチビサン』の作者でもあり、移動図書館には『シュガシュガルーン』のポスターが貼られている)。彼女は男性や周囲の都合に振り回されず「意志」(ドイツ語で"Wille")を貫き通す女性たちを描き、一世を風靡した漫画家である。

 

プラトンイデア論、聖書におけるアダムとイヴの描写、デカルトやルソーの啓蒙思想ニーチェの超人思想を例に出すまでもなく、西洋思想では長らく「理性」、「意志」は男性の領分、「身体」は女性の領分とされてきた。このアニメではその構造を反転させている。NERV(神経)という組織で有機体とロボットの中間のようなエヴァを作り出していた(つまり今のところ女性にしかできない「産む」という行為を行おうとしていた)のは碇ゲンドウと冬月といった男性たちで、それに対し「自分たちの意志で未来を作る」と反旗を翻したのはミサト、リツコの率いるWILLE(意志)である。西洋思想における男性原理、女性原理を反転させているという点においてもこのアニメは新しい。というか男性は知性、女性は感性といったステレオタイプをぶち壊している。

 

かといってこの物語が男女の分断を煽っていると考えるのは早計である。冒頭、伊吹マヤが作戦行動内で弱音を吐いた部下の男性たちに「これだから最近の若い男たちは」とぼやくが、ヴンダー号内で槍を生成する際、船内に残った若い男性クルーたちを見て同じセリフを今度はポジティブなニュアンスで述べている。物語構造から言って、強力にかつ高圧的に存在し、世界をめちゃくちゃにしようとしている高位の壮年・高齢男性から秩序を取り戻すために、女性と男性は共闘できるという目配せではないか。

 

壮年・高齢男性の支配からの脱却を意識的に描いてもいる。たとえば、母親となったシンジの同級生である委員長とその娘、ツバキと、複製人間である綾波レイの関係が描かれている。綾波はツバキとの関わりや農作業を通じて人間性を獲得していく。つまり、ゲンドウや冬月が絶対に彼女に与えられなかったもの、人間らしい言語や概念を、この委員長とその娘は綾波に獲得させているのだ。

 

そしてシンジもまた、「そっくりさん」と呼ばれていた綾波に新しい名前を付けてくれ、と言われ、「綾波綾波だよ」と、名付け行為を行なっている。ここで彼は「父親」と同じような役割を果たし、碇ゲンドウに打ち勝っている。綾波はシンジの母親ユイの複製なので、シンジは比喩的に母親に命名したことになる。母の父になっている。この瞬間、彼ははっきりと碇ゲンドウを超えたのではないか。

 

このようにこの映画では、絶対的・超越的父性を体現していた碇ゲンドウが間接的に乗り越えられる瞬間がいくつか描かれている。

 

最後にそのやっと殺された父、碇ゲンドウについて述べておく。ほぼ殴り書きのような鉛筆描きの絵柄で過去回想が綴られるゲンドウは、たった一人の女性に会うために世界を道連れにしたという点で、「セカイ系」のラスボスのような存在だ。概念的かつ高邁な人類の救済ではなく、そちらが根底にあった願望だと明かす展開、正しく父殺し。神殺しをする父殺しをする少年の物語だった。ただしこの映画で強烈に生き生きと描かれているのは女性である。シンジはトチ狂った父親に引導を渡す(劇中では「落とし前をつける」と表現される)役割しかほぼ果たしていない。意志の槍を届ける際の自己犠牲、父殺しをした少年の救済と、世界秩序を取り戻すためにお膳立てをするのは女性である。これらの点から、非常にエンパワメント性の高いアニメ映画だと思った。

 

追記: 碇ゲンドウが回想シーンでiPadらしきものを操作してたけど、Appleが初代iPhoneを開発したのは2008年。何回かの「インパクト」なるものを乗り越えて、Apple社はiPhoneを世に出していたという設定なのか?そこでガジェットをアップデートすると世界線が壊れないか?ウォークマンが重要なガジェットとして出てくるのに。そう言えば、『プロフェッショナル』で観た庵野秀明のマシンはMacBook Airであった。