(ネタバレあり)原作アップデートとしての換骨奪胎と、瑕疵としての作品無罪論-映画『騙し絵の牙』感想

映画『騙し絵の牙』の感想です。原作と映画、ダブルでネタバレしています。ほぼFilmarksからの転載ですが、映画内の「作品無罪論」についてちょっと補足しています。

 

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塩田武士原作(2017年)からの改変ぶりが凄い。というか舞台となる出版社名と一部のキャラクター名を除き、ほぼ別物だ。原作は大泉洋の当て書きで、大泉洋っぽい台詞を連発するが、映画の方は普通のシュッとした編集者を大泉洋が演じているという体だ。活字の方が本人っぽいというねじれが生じている。

 

キャラクターに沿った改変点は主に以下の通り。

 

佐藤浩一演じる社長の東松、創始者一族の伊庭(いば)家は原作には登場しない。薫風社を一種のファミリービジネスとして描いているのが原作とは異なる。

 

原作のプロローグとエピローグにあった、『トリニティ』編集長・速水輝也と、漫画家をエージェントとなった後輩に取られ編集長から営業職に飛ばされた小山内甫のシーンがない。そのため、エピローグで明らかになる速水の出自も明らかにされない。

 

前述の漫画家エージェントとなった三上は、映画ではオリジナルキャラの社長、東松の部下になっている。

 

女性キャラの改変は概ね上手くいっている。

 

まず、中西という編集部員と高野望の女の嫉妬を軸とした対立は存在しない。これはうまい改変である。なんと言っても観客の半数は女性であり、女性たちは「女の嫉妬」を当然とする作劇には飽き飽きしてりおり、時代のモードもシスターフッド(女性同士の連帯)にあるからである。連帯については、終盤の高野と『小説薫風』江波のあるショットで実現している。

 

高野望が國村隼演じる大作家、二階堂大作の女性観の古さに異を唱える。これは原作にはまったくなかった点だ。原作ではお嬢様である速水の妻早紀子と、速水と不倫する部下の高野望の二人がメインの女性キャラである。速水は自分の仕事を持つことと離婚を望む早紀子の苦悩をから目を背け、望と不倫する。仕事くらいさせてやれよ、と思うほど女性描写が古い。ところが映画では速水の妻と娘は登場しない。それどころか、望が冒頭から二階堂の女性描写の古さを指摘する。速水と不適切な関係にもならない。おそらくこれは、専業主婦である速水の妻と、権力者との性的関係により職場を渡り歩いて来た望という女性描写の古さへの皮肉、とは言わないまでもアップデートである。

 

高野望は原作では作家や上司たちを渡り歩き、速水とも平気で不倫し、罪悪感を抱かないという絵に描いたような「ビッチ」キャラだったが、映画版はまったく違う人間になっている。まず映し出されるのは、松岡茉優演じる望が原作の速水以上の「小説バカ」だということだ。所属先も当初は雑誌『トリニティ』ではなく『小説薫風』の編集者である。彼女が赤を入れ、付箋を貼る姿がこの映画のキービジュアルだと言っていい。

 

また、塚本晋也演じる松岡茉優の父親は、原作には登場しない。彼が細々と営業を続ける零細本屋であることは、この映画のどんでん返しにおいて重要な意味がある。

 

原作では小説家だった久谷ありさが、映画では文芸評論家になっている。小説と読者を媒介する文化人の存在が原作にはなかったので、これは納得の改変である。

 

22年失踪したままの、神座詠一という原作にはない覆面作家が登場する。彼の正体は誰かというのがフックとして存在し、興味を長引かせる。

 

最後に、原作で古巣の薫風社に一杯食わせるのは速水だが、映画では高野望である。原作では、速水は過去に失踪した小説家志望の義父の投稿を待ち望んでいたが大事に育てていた若手小説家の自殺をきっかけにそれを諦め、書籍電子化の時流に乗り、翻訳や資料収集等の作家バックアップ体制を完備した新しい株式会社トリニティを立ち上げる。若手小説家の死の直後に薫風社を辞め、高野望が自分の上司とも不倫関係にあったことを知ったあとの大逆転である。映画では、創業者一族の息子と組んで速水が社長の東松を追い出したあと、Amazonと包括提携し、『トリニティ』を電子化し、Amazonでしか販売しないことにする、という理念なき電子化の流れがある。映画の速水は芯のない「面白至上主義者」として描かれている。それを見て辞表を出した高野望は、幻の小説家神座詠一と組み、新作小説『非A(ナルエー)の牙』を出版し、なんと自分の父親の本屋でのみ販売して、店先に行列を作ることに成功する。

 

これは、原作の速水が電子化の流れに沿ったシステムを構築したのに対し、究極のローカル性への回帰である。「ここでしか買えない本っていうのも十分面白いかなって思って」というわけだ。小規模本屋兼出版社というのは、最近よく見る気がするし、こちらの方が現実に沿っており、なおかつクリエイティブな気はする。

 

本作は、服役中の城島咲に速水が原稿を依頼する場面で終わる。彼が「きっとめちゃくちゃ面白いですよ」と言い、結局はフジテレビ的な面白至上主義に収斂していく結末だが、軍配は明らかに高野望のビジネスモデルに上がっている。小説バカの若手女性編集者が、収益企業と化した出版社とネット流通の巨人Amazonに一矢報いるという結末の方が断然盛り上がる。

 

ほぼ関係者の飲食と会議のみで展開した原作は、字面で読むにはいいが、映画にするには動きがない。映画は原作の内容をほぼ改変し、覆面作家や刃傷沙汰を盛り込んで、ダイナミックな物語を作り出すことに成功している。なによりも、塚本晋也が演じる零細本屋を救ったのがよかった。映画でくらい夢見させてくれてもいいじゃない。

 

まんまと映画製作側に観客としての欲望を読み取られているような気がして癪だが、近来稀に見るいかした換骨奪胎だった。

 

本映画でただ一つ眉を顰めたのは、罪を犯した芸術家の芸術無罪論を唱えている点だ。原作では永島咲という名前だった女優が、映画では池田イライザ演じる城島咲というモデルになっている。原作では彼女が女優初の文学賞受賞者になるが、映画ではストーカーを自作のモデルガンで撃退して犯罪者になってしまう。そのときに速水が、「作者と作品は別物。作品に罪はない」と言い、彼女の雑誌表紙号を強引に刊行し、ヒットを飛ばす。問題は、作品無罪論を唱える文脈である。確かに咲のような正当防衛ならば、作品無罪論を持ち出すのはやむなしだ。しかし実際には、作品無罪論を持ち出される文脈が映画界でいちばん多いのは、関係者の薬物使用や、男性監督や男性キャストの性犯罪が露呈した場合である。そのような現実の文脈を無視し、映画内で「女性が犯罪者になった場合」(しかも正当防衛の余地がある)といったケースを持ち出して「作品無罪論」を唱えるのはいかがものか。その点がこの映画『騙し絵の牙』の唯一の瑕疵に見えた。