(ネタバレあり) なぜロンドンだったのか-『ラストナイト・イン・ソーホー』感想

エドガー・ライト監督の『ラストナイト・イン・ソーホー』(2021)をアマプラで観た。以下、ネタバレあり感想です。

 

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ダリオ・アルジェント監督のメジャーな作品の影響をかなり感じた。

 

・ある職業のプロフェッショナルとなることを求めて越境し、学校の寮に入るヒロイン(『サスペリア』(1977)のスージーはニューヨークからドイツのバレエカンパニーへ入団/ 本作のヒロイン、エロイーズはコーンウォールからロンドンのファッション専門学校に入学)

・タクシー運転手に寮まで連れて行ってもらう(『サスペリア』の冒頭場面だ)

・明滅するライトを含め、全体的に赤い画面

・鏡が効果的に使われている(アルジェント作品では鋭利な物で突き刺すシーンがよく出てくるし、鏡そのものがトリックに使われている場合もある/ エロイーズは一種のミディアムで、鏡を媒介にし故人を見る("medium"=霊媒だが、本作では一言もその単語は出てこない。"I see visions"という言い方をしており、一種の特殊能力としてエロイーズも周囲も捉えている)/サンディとエロイーズの同質性が鏡一枚を隔てて示される。 

・アルジェント作品のタイトルにもなっている"インフェルノ"というバーが出てくる

・犯人の正体にも強くアルジェントの影響を感じたが、それは後述する

 

ライト監督のオリジナル要素としては、殺人者を同情的に描いていることがある。アルジェント監督の殺人者はたいがい怪物性を帯びた殺人狂のように描かれるか、実際に魔女等の超自然的力を身につけた者である。

 

それに対し本作の犯人像は、「何人もの男性に性的搾取をされ続けた女性、サンディが、連続殺人鬼に化した」というものだ。ヒロインのエロイーズもそんな彼女に同情的、というか同じ目に遭う可能性のあったスペックの人間として、大いに共感を寄せ、「彼女を殺せ」というサンディに殺された大勢の男性幽霊たちの命令には従わない。

 

犯人に同情的か否かというのは異なるが、美しくかよわいように見えた女性がその鋭角的な美しさをナイフの刃先に反映させてさらに輝きを増す、みたいな女性殺人鬼の描き方は、アルジェントに似ていると思う。その点でも影響を受けているのではないか。

 

男性幽霊について言及したので、幽霊表象について革新的だと思った点を少し挙げておく。この幽霊たちはのちに、サンディを買春して彼女に殺された客だと判明する。彼らの見た目で確信的に革新的なのは、世の中の秩序を表す象徴であるスーツを着てることだ。映画の世界の中でスーツを着た青年や壮年男性が通常行うことは、探偵役になり、主観的視点となり、画面を支配することだ。しかしこの映画の視点人物は一貫してエロイーズである。ライト監督は、男性主人公のまなざしによる支配について論じたローラ・マルヴィの論文、「視覚的快楽と物語映画」(1975)を念頭に置いていたのではないか。通常の映画では、秩序をもたらし行動の主体となるスーツを着た男性たちが、エロイーズに見られる客体となっている。また、彼女は"視る"人間であることが作中で何度も強調される。

 

とまあいろいろと面白かったが、最も胸熱だったのが、サンディに最初に殺される人間が彼女のピンプだった"ジャック"であることだ。ロンドンのジャックと言ったら、5人の娼婦を殺した「切り裂きジャック」に決まっている。ジャックに娼婦にされたサンディが彼を殺すことは、フィクションの中で切り裂きジャックに娼婦が復讐するという意味である。ここらへんの歴史改変フィクションは、タランティーノみがある。彼と違って実際に起きた事件を題材にはしてないけれど。

 

だからロンドンだったんだな、と一人合点がいった。

 

ライト監督の過去作『ベイビー・ドライバー』(2017)は、なんと主要キャストの二人(アンセル・エルゴートケヴィン・スペイシー)が若年女性や男性に対する性的プレデターであったことがのちに判明した。強者男性による若年女性の性的搾取とそれへの復讐が描かれた本作は、性的搾取者を重用して映画を撮ったことに対するライト監督なりの贖罪だったのかもしれないな、とちょっと思った。何も気にせずアンセル・エルゴートを主演にするスピルバーグのような監督もいるけれども。

 

最後に指摘しておきたいのは、エドガー・ライト監督が『ホットファズ』等で見せてきた"都会と田舎"観を、本作でもちらっと見せていることだ。コーンウォール出身のエロイーズを田舎者扱いしていろいろと意地悪をするジョカスタがマンチェスター出身と言ってたのはちょっとニヤッとした。鉄道がリヴァプールとの間に世界最初に開業した大工業都市で、コーンウォール出身の人間に対してはマウントをかけられるくらいの都会、ということだろうか(あくまでライト監督の主観だろうが)。マンチェスターといえばハッピーマンデーズだと思ってるので、そんなグループを生んだ土地出身の彼女がクラブで生き生きしてたのに不思議はない。最後の場面ではエロイーズの成功を讃える面子の中に入っておらず、「都会に出てきて挫折した若い女性」の役を彼女が最終的に担ったのか、と解釈した。