口は災いの元であり入口である−『スペル』(2009)感想


『私を地獄に連れてって』(2009, “Drag Me to Hell”)という映画を観た。


ネタバレしてますので、これから観ようという方は読み進めない方がいいかもしれません。



…本当の邦題は『スペル』というのだが、なぜわざわざ原題とは違う英単語を使うのだ。 “Spell”というのは「呪い」という意味だが、わざわざカタカナにしてそれを邦題にする意味が分からない。原題の和訳か、それとも一単語で内容を表したいのなら、『呪い』でいいではないか。なぜ最近の映画会社は題名を邦訳しないのだ。原題と同じくらいのインパクトのある題名をつける自信がないのか。面白くない。

(追記:"Spell"というのは「魔力を秘める言葉」「呪文」の意味であり、「呪い」の意味の英単語は"Curse"の方が近いな、と思い直す。作中には老婆がつぶやく呪文として"Lamia"という台詞があり、恐らく邦題はそれを指したんだろう。しかしそれでも邦題『呪文』でいいじゃん、という疑問が残る。『呪怨』と被るし、それに比べてインパクト負けするからだろうか。)




それはそれとして、映画自体は面白かった。 “Ghost House Pictures”という60年代風の映画会社のロゴ(髑髏のアップ)で映画が始まるのだ。おまけに映画の最後には、 “When you’re in Hollywood, visit Universal Studios!”という観光バスのイラストも挿入されている。古き良きアメリカ映画の枠組みの中に、この映画は組み込まれている。



しかし映画の印象そのものは、ビッチ同士のキャットファイト、という感じ。うろ覚えだが、 “This time, I beat you, bitch!”などと、ヒロインは何度か “bitch”という言葉を使っている。この映画では、自分の欲望を満たすためならどんな汚い手段も厭わない女同士の執念の戦いが描かれる。自分のために他人を踏み台にする人間の醜さが、嫌というほど描かれる映画である。



一つ一つ挙げていこう。



ヒロインは銀行の融資係をしている。副支店長の座にどうしても就きたいがために、「客に対してタフな判断ができる」と評判のライバル男性との差を縮めるために、ジプシー風老女が住宅ローン返済期限の延長を懇願しているのに、断ってしまう。



この老女も大概である。娘との同居や老人ホームに入る道もないわけではないのに、頑なに自宅を手放そうとしない。ローンの期間延長はもう二回にもわたっている。「娘と同居なさったら?」と勧められたときの彼女の返答が振るっている。「娘に迷惑かけたくないんだよ!」お前十分赤の他人に迷惑かけとるやんけ。自分の要求を通すために、土下座も厭わないのだが、それでも聞き入れられないとなると、「人前で恥をかかせたね!」と言って逆恨みする。これまでの人生でどのように他人に自分の意思を押し付けてきたか歴然とするような因業ぶりである。



また、ヒロインと副支店長の座を争っているアジア系の男性は映画冒頭において、実社会で働く日本人なら怒り心頭に発すような行動をする。なんと、支店長がランチにサンドイッチを買ってきてくれるようヒロインに頼んだところ、通りすがりのこの男まで便乗して、「あ、僕にも」と頼むのだ。先輩で、今から仕事を教えてもらおうとしているこの女性にですよ。そして、「女なんか男の飯の世話するしか能がないんだろ」とばかりに、支店長とビジネスの話をしだす。ここまでならまだ何とか許せる。しかし、ヒロインが買ってきたサンドイッチのパンを開いて、「君、僕の注文間違えているよ、マヨ抜きって言ったのに」なんてのたまうのだ。そしてヒロインが、「言ってないわ」と反論したところ、その場では「いや、いいんだよ、君の間違いを許すよ」なんて、横で同じくランチを取っている支店長に対して寛大さをアピール。同時に、「僕のライバルと目されているこの女は、サンドイッチの注文のような単純作業も満足にできない奴なんですよ」と印象操作する。個人的には、こいつが呪い殺されればよかったのに、と思った。



ヒロインだって、因業さでは負けてはいない。どうしても副支店長になりたかった理由は、心理学教授で良家出身の彼氏に相応しい地位を手に入れるためだ。彼氏の母親が一流大学出身の弁護士などをグイグイ息子にプッシュしてくるため、農家出身で田舎娘の彼女としては、どうしても今の職場で立身出世して、彼氏に相応しい女性だと母親を納得させねばならない。



一日でも早く手柄を立てて有能振りをアピールしなければならない彼女は、老婆へのローン返済期限延長を断って逆恨みされ、ジプシー風の呪いをかけられる、というのが物語の発端だ。コートのボタンを老婆に引きちぎられて呪いをかけられ、以後三日間、ヒロインは “Lamia”という悪魔に付け狙われることとなる。



そしてなぜか、ヒロインが経験する悪霊現象は、口にまつわる生理的に不快感を催させるようなものが大半である。



ヒロイン、及び老女の口の中に入ったものを列挙してみよう。


蝿、

定規、

蛆虫、

緑色の吐瀉物、

白濁色の吐瀉物。



入るだけではなく、「彼氏の家族とのお食事会」というここ一番の場面で蝿が一匹ヒロインの口から出てきたり、真っ赤な血がヒロインの口から噴水のように出てきて、上司の支店長に大量噴射されるシーンもある。



おまけに、老婆が入れ歯の外れた口で、思いっきりヒロインの下顎を頬張るシーンもある。


徹底的に口への攻撃。



これは恐らく、口は災いの元、というのを表しており、物語から類推される教訓もそれである。



上記のような散々な超常現象に遭遇したためヒロインは懲りて、老婆のローン期限返済を受け入れることにより許してもらうとするのだが、老婆の娘宅を訪ねたとき、彼女はもう死んでいた。狼狽したヒロインが老婆の棺を倒すのだが、その拍子に老婆の死体にのしかかられ、死体の口から噴射されるよだれのような液体を大量に口に流し込まれることになる。



最後には土砂降りの雨の中老女の墓を暴き出して、泥まみれになる。(プレデターがいたら絶対見つからないだろうと思うほど全身泥まみれになるヒロインと老婆。本当にキャットファイトという感じだ。) ヒロインは、老婆の死体の口を無理やりこじあけて呪いのかけられたボタンの入った封筒をねじ込む。呪いのかけられた物を誰か他人に押し付ければ、自分の呪いが解けると占い師に聞いたためである。呪いの贈り物をプレゼントしあう女たち。



最後の場面で、ヒロインがねじ込んだ呪いのボタン入りの封筒だと思われた物は、彼氏に贈ったコインの入った封筒だったと判明し、彼女は結局地獄に引きずりこまれてしまう。



私がこの映画を観て得た教訓は、以下の通り:他人を踏み台にしようとした者は、相応の報いを受ける。どこにでもいる普通の人物がちょっとした過ちを犯したために呪われてしまう、という構造のホラー映画には、「人に迷惑をかけず、清く正しく生きていかねばならない」、という小市民的倫理を補完するための役割もあるのだろう。「花咲かじいさん」や「金の斧銀の斧」といった昔話のように。あ、だからあんなに時代錯誤なオープニング映像だったのか。「教訓物語」というホラー映画の古い枠組みを思い出させるための。



思えば、スティーブン・キングの長編小説もこのような構造が多い。彼が変名で出した『痩せゆく男』というのは、車を運転中、妻に不埒なことをされて(どういう不埒なことかは、小説を読んでみてください)集中力が途切れていたためにジプシーを轢き殺してしまい、巨漢がどんどん痩せていく呪いをかけられる、という話で、ほとんど構造的には同じである。呪いを解くためには誰か他の人に引き取ってもらえばいい、という不幸の手紙、もしくは『リング』形式も一緒。しかし自分が助かるために他人に呪いを押し付けるというのは、他人を踏み台にして自分は出世する、という物語前半での問題行動よりも、もっと質が悪いよな。小さな悪い行いは、大きな悪事への入口である、ということだろうか。



ホラー映画の倫理的構造を考えさせられ、面白い映画だった。お食事中のご鑑賞はお勧めしませんが。


スペル Blu-ray

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