なぜ神永とウルトラマンが入れ替わったことに周りは気づかないのか?-『シン・ウルトラマン』感想

アマプラで『シン・ウルトラマン』を観た。『シン・ゴジラ』のような緊迫感はないが、奇(外星)人変(外星)人観察日記のようなエピソディックな構成で楽しめた。気になったところをメモ。以下、ネタバレしてます。

 

------------------------------------------

 

ゴジラ登場後という世界線で、すでに巨大生物に対する対処法もマニュアル化されている。『シン・ゴジラ』同様、官僚は優秀で、何かが起こったら日本政府はどう対処するかプロトコルがすでに細かく決まっていることが、序盤で延々と描かれる。その上にミルフィーユのように、「政治の世界はどう動くか」も示される。主に言葉だけで説明されるが、こういうディテールは重要である。台詞ですべてを説明しすぎの感はあるが、怪獣や日本の団地を描くのに全振りしたのだろうか。日本政府に対応を迫る外国人外交官さえ出てこない。日本で完結した閉塞感があり、そこに国連の建物や外国人キャストを多用したオリジナルとの違いを感じた。

 

面白かったのは、斎藤工演じる神永とウルトラマンがどのタイミングで入れ替わったのか、禍特対の仲間にも観てる側にも映画半ばまで分からないことだ。神永新ニが避難し遅れた子供をウルトラマン着陸時の衝撃波から庇って命を落としたことに感銘を受けたウルトラマンが、神永の身体に入り込む。神永と同じチームメンバーは物語半ばまで、中身が入れ替わったことに気づかない。人間の行動様式を解さないような、かなり独特なコミュニケーションをしているというのに。ここから類推されるのは、神永が普段から公安出身の公務員らしく隠密行動が得意で真意をなかなか明かさなかったことだ。また、ウルトラマンに代わる以前の神永が、高度な職務遂行能力を有していたことが、少年を救いに行く前のチーム内のやり取りからも分かる。死亡前の神永とウルトラマンが持つ、禍威獣に対する知識と分析に遜色はない。そのため、二人が入れ替わっていても周囲に気づかれなかったのだ。高度に職能が発達した公務員と人間の何倍も高度な文明を持つ外星人の能力が等しく描かれている時点で、日本の公務員讃歌と言える。ほんとにスタジオカラーはしごでき人間が好きだなあ。

 

エヴァンゲリオン』で葛城ミサトのみが生き生きしていたように、この映画では浅見弘子のみが自分の身体にグリップを持っている、という感じがした。同僚女性への尻パンが散々批判されていたようだが。ウルトラマンの身体を「綺麗…」とコメントするのも彼女である。要するに、本作の身体性は浅見とウルトラマンが担っている。

 

「人体」を特撮でどう捉えるかが本作を通じて考察されているように思う。従って浅見がことあるごとに自分の尻を掴むことは思ったほどノイズとは感じなかった。「気合い入れるためにそんなことする女いるぅ?」とは思ったが。

 

男女ともに太ももの辺りが大写しに接写される。机の下から撮られた登場人物たちの職場での顔は、オフィス家具に切り取られているように見える。この撮り方から考えられるのは、監督が人体を、画面を構成するための一種のフォルムとして捉えているということだ。ただ撮っているだけではない。小さいものと大きいものを遠近法で並置して、その違いを楽しむというのは特撮ものの醍醐味だと思う。浅見弘子の巨大化エピソードはやりすぎだとは思うが。そこに過度な性的視線は感じなかった。

 

故事成語や日本の商取引の慣習に精通したメフィラスが最も印象に残る。外星人なのに総理大臣が座るまで頭を上げないとか、それに違和感を抱かず当然のこととして受け止める総理を見せることで、人間の傲慢さを表すとことか。秀逸の一言しかない。

 

「禍威獣が現れるのはなぜか日本だけ」という設定から、禍威獣を生物兵器として利用しようとする外国勢。世界から熱望される対象としての日本をこうも堂々とやられると、少し鼻白む。近年、バラエティ番組等で著しく見られる「外国が喉から手が出るほどほしい何かを日本が持っている」をこうもあからさまに邦画でやられると、正直興醒めする。

 

成田亨の造型を損なわない程度にパッキパキにアップデートされたゼットンは格好よかった。生物兵器の描写がここまで来たかと思った。

 

浅見がせっかくウルトラマンの美しさを理解し陶酔するような表情を見せてるのに、終盤のゼットン戦への送り出し方が「頑張って」というだけでまったく工夫がない。しかし未知なるものに圧倒される役回りに長澤まさみを当てたのは正解で、あんなに台詞は酷いのにきっちり仕事をしている。

 

「問題ない。君たちが生き残ることが最優先事項だ」と、ガースー官房長官のようなノリで神永が人間の案を即採用し、ゼットンに1ミリ秒で特攻を仕掛けて倒す終盤の展開はあっさりしすぎていた。しかしそのあとのゾーフィとの対話を見て、「ああ、これがやりたかったんだな」と思った。ルドルフ・シュタイナーレヴィ・ストロースの著作で仄めかされるのは、「人間とは何か」という問いにほかならない。しかしそこに、『シン・ゴジラ』における「日本は愛されてるわね」と同じ類の自己愛を感じ取ったのも事実だ。『シン・ゴジラ』とは異なり、自己愛には止まらない真摯な思索が展開されてはいたが(「分からないから一緒に暮らして考えたい」と結論づけるところ)。

 

高橋一生が出演していたことをエンドロールで確認し「え?どこに出てたの?」とネットで調べてみたら、ウルトラマン役とのこと。斎藤工だと思ってたので驚いた。リピアー=ウルトラマンと神永新二は別人というのをそこで表すなら、もっと声質が違う人を採用した方がよかったのでは?