現実とカメラの関係−『パラノーマル・アクティビティ第2章/ TOKYO NIGHT』感想

パラノーマル・アクティビティ第2章/ TOKYO NIGHT』を観てきました。(D. 長江俊和, 2010, 日本)

渋東シネタワーで観たのですが、観客30人ほどのうち、自分の四方を見渡すと、ほとんどが茶髪の10代後半から20代前半の女性でした。やっぱりこういうゴア描写や切り株描写を売り物にしていないライトな心霊現象物って、ホラー映画にはつきものの流血描写をあまり好まない層にも受け入れられやすいのでしょうか。

以下、内容に触れています。

粗筋は以下の通り。

2010年9月初旬、浪人生の山野幸一(中村蒼)は、アメリカで足を複雑骨折し、車椅子で帰国した姉、山野春花(青山倫子)を、ビデオカメラを回しながら迎える。姉は現地で交通事故に遭ったのだ。ある日、姉が不思議なことを言い出す。部屋の中で、ベッドの側に置いていた車椅子が、いつのまにか窓際に移動していたと言うのだ。部屋を清めるために姉の部屋に盛り塩をする幸一。しかしそれは、何か目に見えないものにより、いつのまにか散らかされていた。その瞬間を姉の部屋に置いたカメラで偶然撮っていた幸一は、「幽霊が映る世紀の瞬間をカメラに収めよう」と、姉の寝ている間も部屋の撮影を続けることを主張する。嫌がる姉の反対を押切って。・・・

前半の3分の1くらいは、姉と弟の二人暮らしの日常風景です。ちょっとだらしないボンクラな弟の役に、中村蒼さんがとてもうまくはまっていました。でももっと無名の俳優さんの方が、よりモキュメンタリーっぽさが出たかもしれません。

この物語、「前作の出来事から4年後」という設定なのですね。春花がアメリカで交通事故を起した相手が前作のヒロイン、ケイティという設定。ケイティは、前作の結末では「婚約者を殺害してから消息不明」ということになっていました。彼女は2010年に春花の車に轢かれるまで、4年間半狂乱のまま街をさまよっていたということなのでしょうか。

で、その事故で両足を複雑骨折した春花が自分では自由に動けないという点が、後半「自力では立てないのにもかかわらず、寝ている間に霊の力により無理やり立たされる」展開の伏線になっています。

でも、両足複雑骨折して日常生活も弟の手を借りないとままならないんなら、直るまで入院してた方がいいんちゃうん?と思ってしまいましたね。いちおう「入院生活を経たあとで、自宅に戻ってきた」という設定になっているらしいのですが・・・。

肝心の心霊現象の点ですが、春花が中盤「私もう入院する」と言ったのに霊が怒ってコップがいきなりバリン!と割れるまで、それらしきことは起こりません。「ゆっくりと近づいてくる足音がする」、「ドアがいきなり開いたり閉じたりする」など、結構地味な現象が描かれていきます。もちろん日常生活で実際に起こったら、ガクブルものでしょうが。

そして夜中に姉の就寝中の部屋を撮っている映像に、終始「ゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・」という音が被さっており、霊的存在が近づいてくると、「ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・」となります。でもそれ、効果音だよ。後付の編集段階で付けた音だよ、ということだけは言っておきたい。

(意味が不明瞭だったので付け加えますと、前作の「ご家庭のホームビデオで撮ってたら、霊が映っちゃいました」系のリアルさをすでにこの続編では諦めているように見えたのですよ。前作ではエンドロールも付けず、「ドキュメンタリー」という体裁を取っているところで生々しさが増したのですが、今作ではがっちり最後に監督名まで出してますからね。)

あと、アメリカからケイティに憑いていた霊を持ち帰っちゃったという設定なのですが、盛り塩、お祓いで対抗しようとするあたり、日本的だな、と思いました。アメリカにいた霊だってことで、サタン的なものかと調べたりする幸一ですが、最終的には"悪意"という呼び方で呼びます。で、ほんとうに最後まで霊的存在の実体としての恐ろしい姿は見えず、姉に憑依する形で出てきます。

これはどういうこと?と思ったのは、お祓いをしてくれた人が「かしこみかしこみ」などと祝詞を詠んでいるからには、神社の人だと思ったのですが、「○○神社の神主さん」ではなく、普通に「西園寺さん」と呼ばれていることです。民間の除霊業者の割には、きちんとお祓いの儀式を行なっていたと思う。しかし、お祓い後4,5日ほどおとなしくしていた"悪意"は、いつのまにか戻ってきます。なぜお祓いのあと戻ってきたか、いや、これたのかの説明がほしかった。だってこのお祓いを行なった「西園寺さん」は、儀式直後に心筋梗塞で亡くなったことになっているのだから、"悪意"にとって4日も待っている義理はなかったはずなのです。こういう映画に出て来る霊的存在に、理屈なんて求めるのはナンセンスかもしれませんが。なぜこの映画に出て来る"悪意"が盛り塩、お祓い、十字架も乗り越えるほどに強力なのか、なんらかの説明がほしかったですね。

今回の感想でいちばん考えたかったのは、なぜ幸一君は、"悪意"に襲われている姉を助けに行くときも、ハンディカムを持っているのか、ということでした。

おそらく幸一君は、ビデオカメラが、自分と霊的な存在とを分かつ、一種の防御壁になると思ったのではないでしょうか。カメラがある限り、自分は絶対に安全。

カメラの画面を空間に向け、何か被写体を捉える行為、それは外界を客観的に「把握」しようとする所作であると同時に、外界から自分をシャットダウンする所作でもあります。自分と現実の間に、ワンクッションのカメラを置いておけば、自分には外界の力が及ばないという確信。「観察」、「客観性」という名の、正気の最後の砦。

しかしレンズの前で、得体の知れない"悪意"が猛威を振るい始めます。最初はドアを開け閉めする程度だったのが、春花の髪を引っ張る、ガラスを割る、十字架を燃やすなど、エスカレートしていきます。必ずカメラに映るようにやります。段々と"悪意"が可視化されていきます。

最終的に、春花に憑依した"悪意"が、スクリーンを見ている観客、私たちを凝視する場面で、この映画は終わります。"悪意"が観客に辿り着くまでの映画なのです。"悪意"が私たちの存在に気付いていることを、私たちに知らせた時点で、物語は終わります。(ここらへんは前作とまったく同じ展開。)

視線を向けている私たちが、向けられる対象になる。「お前は映画を観てるんじゃないんだ。映画に観られてるんだよ」。映画を観た観客の反応をも宣伝に組み込んでいった、増殖型映画、『パラノーマル・アクティビティ』にふさわしい結末だったのではないでしょうか。

カメラを通して視るという行為と、カメラを向けられた対象の関係について、考えさせられる映画でした。

パラノーマル・アクティビティ3』の製作も、すでに決定されているようです。