漫画実写化邦画ベストテン

Washさんの企画「漫画実写化邦画ベストテン」に参加します。
washburn1975.hatenablog.com


1. 『ヒル妖怪ハンター』(1991年)
(原作者:諸星大二郎、監督:塚本晋也、主演:沢田研二

2. 『孔雀王』(1988年)
(原作者:萩野真、監督:ラン・ナイチョイ、主演:三上博史

3. 『1999年の夏休み』(1988年)
(原作者:萩尾望都、監督:金子修介、主演:宮島依里

4. 『オールド・ボーイ』(2004年)
(原作者:土屋ガロン嶺岸信明、監督:パク・チャヌク、主演:チェ・ミンシク

5. 『殺し屋1』(2001年)
(原作者:山本英夫、監督:三池崇史、主演:浅野忠信

6. 『頭文字D THE MOVIE』(2005年)
(原作者:しげの秀一、監督:アンドリュー・ラウアラン・マック、主演:ジェイ・チョウ

7. 『デスノート』(2006年)
(原作者:大場つぐみ、監督:金子修介、主演:藤原竜也

8. 『クローズZERO』(2007年)
(原作者:高橋ヒロシ、監督:三池崇史、主演:小栗旬

9. 『本気のしるし 劇場版』(2020年)
(原作者:星里もちる、監督:深田晃司、主演:森崎ウィン

10. 『ジョジョの奇妙な冒険 ダイアモンドは砕けない 第一章』(2017年)
(原作者:荒木飛呂彦、監督:三池崇史、主演:山崎賢人

三池率が高い。私は今でもジョジョの続編を待ってますからね。
漫画実写洋画ベストテンだったら多分ダニエル・クロウズ原作、テリー・ツワイゴフ監督の『ゴーストワールド』入れてましたね。

曖昧な存在に形を与えるものとしての愛-『本気のしるし』感想

『本気のしるし』をFilmarksのオンライン試写会で観ました。曖昧ですが最後の展開までネタバレしてます。未見の方はご注意。

 

愛することのないまま二人の女と関係を続けている優しいけれども残酷な男が、ひょんなことからある女を助け、そのままゴロゴロと坂道から転が落ちるかのように女の抱える「地獄」に巻き込まれます。

 

2人の関係が進展するにつれ、これまでのだらしなさ、曖昧さのつけを払わされるかのような金銭トラブル、人間関係の地獄絵図が展開します。

 

いつも楽そうなワンピースを着た切り下げ髪の女は、「すみません…」「ごめんなさい…」が口癖で、その見た目も行動もちょっとだらしない感じです。

 

男の方は口調も仕事の仕方もクリアカットで、硬質の印象を与えるのですが、その実、来る者は拒まずな感じで社内の先輩、後輩と付き合っています。

 

そんなだらしなくて曖昧な存在様式の男女が出会い、女の方はある出来事をきっかけにはっきりした存在の輪郭のようなものを獲得し、逆に男は硬質、明晰な立居振る舞いから「死んでるも同然」の薄汚れた生活様式に自らを落とし込みます。

 

その2人が「本気のしるし」を試すイニシエーションを経て、自らの意志で再び生きることを選ぶまでの地獄巡りのような物語だと思いました。

背中の説得力-『ジュディ 虹の彼方に』

二人の子供たちとどさ回りで地方の舞台に上がり日銭を稼ぐオープニングから1947年のロンドン公演の合間に、MGMのプロデューサーやステージママによりコントロールされていた十代の挿話が入る物語構造である。

 

ジュディ・ガーランドは生涯五人の夫を持ったが、どの関係も不毛だったかのように描かれる。彼女が愛を注いだのは、彼らではなく彼らとの間の子供たち三人だ。

 

彼女の歌手としての力量が徐々に示される。初演前のリハーサル時、「(練習する曲の選曲は)あなたのチョイスよ」と言われ躊躇うことなく「虹の彼方へ」のイントロを弾こうとしたバンドリーダーが、数日間の公演後、舞台上で同じ言葉を言われると別の曲を弾き出す。舞台を踏む中で、歌い手としての彼女がマンネリに陥っていないことを知ったからだ。

 

アルコールとドラッグへの依存とステージ・フライトからくる睡眠不足からヘロヘロになった彼女が、突き飛ばされるように舞台へ出た途端、目に生気が戻り昔のように歌い出す。彼女の真価はスタジオの書割やセットの中にあったわけではなく、観客を前にしたステージ上にあったという描写だ。

 

彼女は「観客との愛を信じている」と言う。

 

客席との間にある絆が示されるのは、ステージ上であの代表曲を歌えなくなった瞬間だ。そのときスクリーンの向こうの私たちは、いかに彼女が観客に愛され、待ち望まれていたかを目にすることになる。ここで、ゲイアイコンたる彼女の姿が刻印されている。

 

五人の夫を愛したが、本当に成就したのは観客との愛である。だから『オズの魔法使い』から、「大切なのはいかに多く愛したかではなく、いかに多く愛されたかである」という言葉が引用される。

 

ハリウッドは「虹の彼方」、ジュディの声が彼女を虹の彼方へと連れて行く「ルビーの靴」と重ね合わされている。序盤でMGMのプロデューサー、ルイス・B・メイヤーから「君は普通の女の子のようには生きられない」と呪縛のような言葉がかけられており、実際に彼女が「普通の女の子」のように生きられなかったことを、終盤のミッキー・ルーニーとのエピソードがさりげなく示唆している。

 

上記がこの映画によるジュディ・ガーランドのプレゼンテーションである。

 

伝記映画としてはよく言えば手堅い、わるく言えば凡庸な出来という印象を受けた。主演以外の人物も目立たず、レネイ・ゼルヴィガーの演技をそこに置くためだけにあるような映画である。

 

私が最も感銘を受けたのは、バックバンドの目線から見たジュディ=レネイ・ゼルヴィガーの背中と肩甲骨だ。白く発光する背中はまるで、いまから羽が生えようとしているかのように大きく滑らかに見える。

 

オズの魔法使い』でも、黄色いレンガの道を行くドロシーの後ろ姿があったのを思い出させた。

 

レネイは、舞台に上がるまでと舞台上の演じ分けも凄かった。酒とドラッグとうつ症状でヘロヘロになり、付き人のロンドン娘と並んでも小柄で弱々しく見えた彼女が、舞台の上では強烈に輝いて見えるという演出はベタな対比の手法だが、効果的だ。それまで焦点の合わない目でおどおどしていた彼女の目の焦点が舞台上でギューンと合い、初めて正気を取り戻したかのように見える。彼女が小柄な中年女性のフランシス・エセル・ガムからジュディ・ガーランドになる瞬間は、魔法のようだ。

 

この映画、ロンドン公演の話だし製作には BBCフィルムズが入っている。またレネイのブレイク作はイギリス人女性を演じた『ブリジット・ジョーンズの日記』であり、2016年には『ミス・ポター』で『ピーター・ラビット』の作者ビアトリクス・ポターを演じている。テキサス出身なのに、イギリスに縁のある女優さんである。

金持ち一家と貧乏一家の違いは何か?-『パラサイト 半地下の家族』感想

貧乏家族と金持ち家族の対比は、まず自宅の描写からなされる。

 

繁華街の半地下に住む貧乏家族と、坂の上に住む金持ち家族。

 

トイレが目線の上にある半地下に住む家族と、自由な平面遣いのモダニズム建築に住む一家。

 

しかし思いの外、共通点もある。

 

どちらもあまり親族関係は描かれない。

 

貧乏家族はアイデンティティを偽るときに存在しない親族の話はするが、援助をしてくれるような親族の存在は感じられない。

 

金持ち家族も父母とその子供たちだけの核家族である。父親がIT企業で身をおこしたようで、特にどちらかの実家が太かったような描写はない。キャンプやガーデンパーティーを好むアメリカナイズされた生活様式からは、ベンチャー成金であることがうかがえる。

 

友人からもらった得体の知れない岩を何かのジンクスのように持ち歩く貧乏家族の長男。


「幽霊が出るのは商売にいいことだ」と言う金持ち家族の父親。


どちらも迷信深い。


また、韓国社会の中で英語が重要視されていることが分かる。留学経験や外国での勤務経験が高く評価されている。


長男は兵役期間を挟んで4回ソウル大学を受験して落ちており、受験英語の勉強経験を買われて家庭教師となる。


金持ち家族の母親は、ところどころに英語のフレーズを織り混ぜるが、ネイティブレベルの流暢さではない。


家政婦でさえも「エニタイム」といった英単語を用い、家政婦の夫が社長に言う言葉は「リスペクト!」だ。


これにはハリウッド市場を視野に入れた戦略以上の監督の意図を感じる。


貧乏一家はアイデンティティを偽るが、金持ち家族の長男もまた、天才肌の芸術家を装っている。


しかしこの物語は、両家族のそのようなパラレル関係に綺麗にはおさまらない。


ちょっと話の均衡が崩れたと思うのは、終盤の襲撃で死ぬのが貧乏家族側は長女だけということだ。運転手の地位を取った父親、家政婦になり変わった母親、そして留学中の友人から金持ち家族の「お兄さん」の地位を横取りした長男とは違い、彼女は直接的には誰の地位も奪ってはいない。トラブルを抱えた年少の男の子に対応できる彼女だけは、金持ち家族が真に必要としていたかもしれない人物かつ、貧乏から抜け出して本物の金持ちになるかもしれなかった才気あふれる人物である。


この映画には語られていない数々のことがあるのも、想像の余白を残している。


たとえば消毒剤を箱に吹きかけられたピザ屋はどうなったのか。

 

貧乏一家の長女がどうやって金持ち家族の長男の敬意を得るにいたったか。


貧乏家族の長男が金持ち家族の長女に喩えた花の名前。


貧乏家族の長男が盗み読みした金持ち家族の長女の日記に、何が書かれていたのか。


父親を失った金持ち家族がどうなかったか。


連続ドラマなら「美味しい」と言えるようなそれらのディティールは、監督の言いたいことにとっては些末なこととばかりに省略される。


しかしひとつだけはっきりと分かるほのめかしがあった。


家政婦の夫が豪邸の半地下から送り続けていた「助けて」というモールス信号に、アメリカ製のテントで遊ぶ金持ち家族の長男は気づいていた。それをずっと無視していたということだ。そこに金持ちと貧乏人の断絶を最も感じた。

 

しかしそんなにこの両家族は違うだろうか。

 

社長も貧乏家族の父親も、IT企業と台湾カステラという違いはあるが、事業を起こした起業家である。決定的に異なるのは、それが成功したか否かだ。


金持ち家族の夫婦が数年前まで地下鉄に乗っていたということは、彼らが成金だということだと思う。金で買えるものしか持っていないこと、世襲の財産がある一族のようには古いお屋敷に住んではいないこと、裕福な親戚への言及がないこと、海外留学者への盲目的な信頼など、ベンチャー企業の社長一家という感じがする。清潔な環境へのこだわりにも、新興上流階級っぽさを感じる。

 

なにより、使用人を取っ替え引っ替えし、消耗財産のように扱う点に新しく財産を成した人の印象を受けた。家政婦や運転手のつてがないのはその象徴である(古い金持ちだったら実家から紹介してもらえるだろう)。


だからポン・ジュノは、二つの家族の違いを所有する可処分所得以外にはないように描いていたのではないか。


最後に貧乏家族の長男は、「根本的な計画があります。まずは金を稼ぐことです」と言う。彼が言う「計画」には、「計画がある」が口癖だった父親のそれと同じくらい具体性も実現可能性もない。


ここで思い出されるのは、金持ち家族が長男の誕生日に開いたガーデンパーティである。あの当日になって立案、計画、実施された会は、金と人脈と時間があるからこそ可能になった。金があるから可能になることは多いが、金を稼ぐために学歴もつてもない貧乏人ができることは少ない。ピザの箱を折る低賃金の仕事か、身分を偽ってあるところから騙し取ることくらいである。それを2時間半見せられたあとで、「計画があります。金を稼ぐことです」と聞かされるとは思わなかった。


格差社会をこういう風にエンターテインメント化していることに批判の向きはあるが、「金を稼ぐしかない」という、一周回ってようやく常人のスタート地点に立ったかのような結末には驚愕せざるを得ないはずだ。

究極のメリトクラシー映画-『アド・アストラ』

地球外生命体を探しに行きそのまま戻らなかった偉大な宇宙飛行士を父に持つロイ。地球でサージと呼ばれる電気嵐が起こり、原因は海王星あたりで出発から16年後のいまも生存している父と聞かされる。彼を説得するために、自身も宇宙飛行士であるロイが派遣される。

 


非常に内省的な映画だった。ほかの惑星への出発前に、ロイが精神状態をチェックされる場面が何度もある。彼の精神は鏡面のように静謐で、他人と距離のある人物として提示される。彼の心拍数が80を超えることがないため、無理矢理作り出したような緊迫感がないのが好ましい。前半はあくまで静か。

 


それだけに、「身近な者を大切にする。大事な他者に身を委ねる」という凡庸な結末はがっかりだった。特にロイが、自身の目的のためであれば宇宙飛行士3人の命を犠牲にすることも厭わない人物であることが明らかになったあとには。

 


地球外生命体を見つけるという崇高な目的のために、船長であるにもかかわらず船員を全員殺す父と、自分で父を回収するために乗るはずではなかった宇宙船に無理矢理乗り込んで止めようとした3人の命を犠牲にする息子。パラレル関係にある。

 


ロイのせいで亡くなった乗組員の中には、黒人女性と、「ヨシダ」という名前のアジア人男性がいた。

 


おまけにロイはその後処分を受けた形跡がない(おそらくサージを止め、結局父を生きては連れ帰らなかったからだろうが)。「能力のある白人男性が、目的のために他者を犠牲にするのは致し方ない」という、究極のメリトクラシー映画だった。

ループ物からパラレルワールド物へ-『ハッピー・デス・デイ・2U』

ループ物から平行世界物へ、物語の形式が移行している。ツリーの母親が生きている世界線で、ツリーが元の世界へ戻るかどうか葛藤する。


ホラーというより科学ミステリ。前作の謎が解明される。


前作で自分の恋人となったカーターがダニエルと恋人同士となっている多元宇宙で、ツリーが中指を立てながらダイビングのパラシュートを開かずに落下自殺する場面で笑った。


多元宇宙物であるからには、次元を超えてやってきた並行世界にはもう一人のツリーがいるはず。ツリーの意識の中身だけが入れ替わったのだろうか。そこらへんがよく分からなかった。

イドリス・エルバの壮絶な無駄遣い-『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』

泣きたくなるほどのイドリス・エルバの無駄遣いだった。『ブレードランナー』のロイ・バッティ役だってできる演技力の俳優に、あんな深みのないアンドロイド役をやらせたのは大罪に値する。本人の演技も、ハリウッド大作向けらしく大味にチューンアップしていたと思う。


最後、2対1の対決シーンで、「俺たちは心を大切にする」と言っていたが、その前のハカのシーンと同じくらい取ってつけた感があった。


「ファミリーが仲良くすること」に至上価値が置かれた本シリーズ。家族の軋轢が解消し、終盤では団結して困難に立ち向かう。


本作で個人的に唯一印象に残ったスタントは、ブリクストンのバイクでトラック下通り抜けシーンだけだった。

 

ライアン・レイノルズのCIA捜査官がコミックリリーフとしていい仕事をしていた。たぶんスピンオフが作られるだろう。あんな人材をワイスピユニバースが放っておく訳がない。