ソロリティの凶暴さ-『ハッピー・デス・デイ』

誕生日の18日月曜日から抜け出せなくなるループ物。

 

ホラーというより、『バタフライ・エフェクト』のような因果関係を楽しむサスペンス映画だった。

 

アジア人に対する態度等、ツリーという白人女性の主人公が最初あまりにも性格が悪いので殺害されてもまったく同情できないのだが、物語が進むにつれて「がんばれ!」と応援したくなるストーリーテリングの妙。

 

犯人が判明したときに、ソロリティ(大学の女子クラブ)のリーダーであるダニエルが「犯人の誤算は、カップケーキを作ったことです。ソロリティのメンバーは炭水化物を摂るわけないのに」と言っている。彼女の健在により、不健康なルッキズム至上主義が維持されたままで第1作目は終わる。

 

ホラーやミステリー的な面白さよりも、ソロリティがメンバーに課す規律の非人間性が印象に残る。

舐めてた相手が殺人兵器でジャッキー-『ザ・フォーリナー/復讐者』

原作はStephen Leatherによる"The Chinaman"(1992)。


「舐めてた相手が殺人兵器」もの。殺人兵器の起爆剤が身内の女性の死というのは飽き飽きのパタンであるが、兵器を演じるのがジャッキー・チェンという点に新味がある。


観客はおそらくみな、ジャッキーが強いというのは知っている。興味があるのはどのような過去を持つ設定であるかだ。それは1時間後に明らかになるが、思ったよりヘヴィ。


しかし北アイルランド紛争(の残滓)にいきなり放り込まれるには、このくらいの過酷な半生が必要なのかもしれない。


爆弾テロを起こしたUDIに意趣返しとして爆弾を爆破させまくるジャッキーであった。


UDIのモデルはUDR(Ulster Defense Regiment)か?UDI自体には"A unilateral declaration of independence"(一方的独立宣言)の意味があるので、アイルランド共和国とは統一しない形の、北アイルランド単体としての独立国家樹立を目指した集団ということか。

擬人化されたゴジラには魅力がない-『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』

人間に飼い慣らされたゴジラ、破壊者ではないゴジラは驚くほど魅力がなかった。


人間とモンスターの共生がテーマの一つ。


「モンスターの廃棄物を飼料に」と、巨大生物が資源循環型社会の一部になる。


オリジナルのゴジラにおける原爆や原発事故への怒りは跡形もない。登場人物は相当放射線を浴びているはずなのに、まったく問題がないかのように描かれている。


それどころか、「巨大生物の足跡に草花が生える」とか、「砂漠が緑化される」のように、まるで地球および人類に利益をもたらす存在のように描かれている。


巨大生物を利用可能な資源やこれから開発の余地があるブルーオーシャンのように描くのは、究極の飼い慣らしだろう。

 

この換骨奪胎ぶりは、日本の第一作目にあったメッセージを反転させていると言ってもいいほどだ。価値観のアップデートはよいことばかりではないと思わされた。

クライマックスで黒マスクの妙味-『ザ・ファブル』

キレのあるアクションが凄い。ゴミ処理場のクライマックス約20分で、全身黒装束の岡田准一が黒マスクをずっと被っているのが偉い。顔が命と思われるジャニーズなのに偉い。掲載された雑誌がメディアに引用される際、ジャニーズタレントは黒抜きになったりするから、その暗喩みたいで面白かった。


二人いるファイトコレオグラファーの一人が主演俳優だった。


若手の男性俳優も心なしかほかの作品で観るよりイキイキしてたような気がする。


もっとこういう映画が作られればいいのにと思った。 


ファブルを責任持って殺すと言っていたボスはどうするつもりなのか。続編に続くのだろうか。

生き残った理由は運か、強さか?-『ウィンド・リバー』

自発的な選択と偶然性ということに関して考えさせられる。


ジェーンに対しコリーが最後、「君が生き残ったのは運じゃない。倒された者は弱かった。君は強かった。自分の力で生き残ったんだ」的なことを言うんだけど、最後にジェーンは「ナタリーは10キロ走ったのね」と言って号泣する。


このときジェーンは、ドア越しに二回も襲われて生き残った自分の運の良さを考えていたのかもしれない。彼女は催涙スプレーで襲われたあと不良グループの一員との銃撃戦に勝つ。その後、ピートにドアの向こうからマシンガンで撃たれたのに助かっている。彼女の銃のスキルや防弾チョッキといった備えのおかげもある(彼女は強かった)のかもしれない。しかし同じ過ち(危険を事前に察知できず、ドア越しに襲われる)を二回も繰り返したにもかかわらず生き残れたのは、多分に運の良さもあるはずだ。


肺が破裂して血を吐くまで10キロも走ったナタリーが弱かったはずはない。むしろこの上もなく強かった。それでも彼女は死に、ジェーンは生き残った。


また、マーティンの娘ナタリーの死はコリーによって贖われたが、コリー自身の娘エミリーの死の真相は分からない。


マーティンの息子へのコリーの説教(「軍や大学へ行く道ではなくヤクの売人の道を選んだのはお前だ」)や、「都会では偶然事故に遭うことのような運の悪さで死ぬことがあるが、ここ(インディアン居留地)では偶然はありえない。すべては必然だ」というベン・ショーヨーの台詞により、自身の選択の大切さが強調されている。しかしそれとは裏腹に、軍を除隊して採掘所の警備員として働いていたマットのようなまともな人物でさえ、周囲に有害な男性性を持つ同僚がいたせいで、リンチに遭い死んだ。


生き残るには自身の選択だけではなく、運の良さ(偶然性)も関係していることを、映画の展開は主にジェーンの生存により示している。


しかし16歳でコヨーテに食い荒らされた死体となって発見されたエミリーの身内であるコリーの口から、「生き残るのは運じゃなくて強さ」という言葉が発せられたことの意味は大きい。彼自身は「なぜ自分の娘がそんな目に遭わなくてはならなかったのか」を考え続けている。


もうすでに死後の世界にいるような人間で、彼だけスノーモービルで単独行動をしたり、雪に同化するような白装束にはそのような意味もあるのだろう。


その彼がジェーンに「君が生き残ったのは運じゃなく、強かったから」と言ったのには、限りない優しさを感じた。

静かな滋味あふれるギャング映画-『アイリッシュマン』

原作はCharles Brandtの"I Heard You Paint Houses"(2004)。


アイルランド系のトラック運転手フランク・シーランと、彼が殺し屋として仕えたイタリア系マフィア、バファリーノ一家とトラック運転手労働組合の委員長ジミー・ホッファの関係を描く。


ラッセル・バファリーノを演じるジョー・ペシの静かな演技がよかった。


Netflix映画はテレビや映画でうまくいった先行作品をアレンジしたり、そのままリメイクする手法が多い(『クイアアイ』や『テラスハウス』しかり)。この作品もNetflixが「御大、いつもの調子でお願いしますよ」とスコセッシに発注して作られたような映画だな、と思ってたら、意外にもスコセッシ映画にアル・パチーノが出演するのは初めてだそうで、デニーロとパチーノをスコセッシの監督で観るというのはある種の映画好きにとっては夢のような話だろう。Netflixは現代の夢工房としての機能を果たしてるんだなあ、と思った。


フランクの表彰式で彼とジミーが立って話し合う場面、刑務所でラッセルに「ジミーはいい奴だった。殺すのはやりすぎた」と言われ、フランクが目を伏せる場面がエモかった。


フランクの娘ペギーが年配の男たちの関係性をじーっと見ているのも、彼女の目線が彼らの判断に影響を与えているようでまったく与えていなさそうなのも、非情でよかった。しかし最後にフランクが老人ホームで「ドアを少し開けておいてくれ」と神父に言ったときには、以前夜中に人殺しのため外出する際にペギーが部屋から出てきて「どこへ行くの?」と言ったのを思い出していたのかもしれない。


Netflixで連続再生されたメイキング映像で、アル・パチーノがインタビュアー役みたいになってるのが何気によい。俳優陣の中ではいちばん理論的に演技を考えてそう。そのメイキングの中でスコセッシが、3時間29分もある映画であることにコメントを求められ、「いまは映画の鑑賞方法も変わってきてるから…」と言っていた。おそらく自宅鑑賞を前提に作られた作品。私も金土日と三日間かけて観終わった。だから映画館で鑑賞した人を、私は無条件に尊敬する。


しかしCGでの若返り撮影法といい、時代の変化に適応してるんだよなー、スコセッシは。アメリカン・ニューシネマ版『アヴェンジャーズ』みたいな映画でした。


全体的に「よかった」と「エモかった」としか言っていない感想になったが、静かな滋味溢れるよい映画だった。

木村文乃のノイジーなギター- 『羊の木』

錦戸亮は町役場の公務員役が超ハマり役。というかああいうムダに(失礼)ルックスがよい勤め人いる。


木村文乃がノイジーなギターをかき鳴らす場面だけめちゃくちゃかっこよかった。


「のろろ様」のビジュアルはもっと禍々しい感じにしてもよかったのでは。


元受刑者のうち、元理髪師、元ヤクザ、元DVの被害者、元首絞めプレイで夫を殺した女は更生し、元池袋のチンピラ、元少年院出は殺し合う。


「いくら環境が整ってもちょっとしたきっかけでまた身を持ち崩す者はいる」という、人間の脆さを描いた映画だと思った。