「犠牲者の実力を見よ」―『セルビアン・フィルム』感想

(Dir. Srđan Spasojević, Српски филм / Srpski film [English Title: A Serbian Film]. 2010. Serbia.)

シアターN渋谷で、『セルビアン・フィルム』を観てきました。

セルビアの映画」と銘打たれたこの作品、「映画を撮ること/ 観ることの暴力性」について、メタ的に考えさせられる内容でした。以下、内容に触れています。

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この映画には、創作の世界において、資本を持つ者に表現者が搾取され続ける様が描かれています。

大まかな粗筋としては、以下のようになります。

引退したポルノ男優ミロシュ。翻訳家の美人妻、幼い息子と郊外の家で中流家庭の生活を送っているが、昔の貯金も底をつき始めていた。そこへ昔馴染みのポルノ女優から、「ポルノという芸術を極めるプロジェクト」に参加するよう持ちかけられる。大金が入るということで、妻の勧めもあり契約書にサインしてしまう。撮影は孤児院から始まったが、これまで出演してきたようなポルノとは異なり、女優への殴打を含むような暴力的な内容に戸惑うミロシュ。だんだんと監督の要求はエスカレートしていき、暴力の度合いを強めていく。耐えきれなくなり降板しようと監督の邸宅へ向かうが、なぜか三日後に自宅のベッドで目覚めた彼は血塗れだった。いったい何が起こったのか。…

主人公が怪しげなポルノ撮影に引き込まれてしまうまでの過程がしっかり描かれていました。ミロシュは大卒出のインテリで、外国語で仕事をするような知的職業に就く女性と結婚しています。"Make love"と"fuck"は違う、と自分が出演してたポルノと夫婦の営みの違いを把握するほど客観的な人間です。そんな彼が得体の知れない元心理学者で児童向けテレビ番組プロデューサーのポルノ監督に「ポルノの芸術性を証明する」ともっともらしいことを言われ、幻惑されてしまったのは、おそらく彼自身に職業的ポルノ男優としての矜持があったからです。現役の頃と違い、継続的に勃起することができなくなった彼は、ジョギング、瞑想などのメソッドを用いて、昔のスキルを取り戻そうとします。

しかしそんなミロシュの矜持は踏みにじられ、「ポルノ男優に映画の内容を教えるなんて」と脚本も渡してもらえません。監督のキューもなく撮影は始まっており、コンバットスーツ姿の男たちがハンディカムのレンズ越しに睨みつける中、ミロシュは戸惑うだけです*1。ミロシュは顔中青あざだらけにした女性相手など、通常の感覚を持っている男性ならば勃起するわけがない状況でのセックスを強要されます。絶倫剤で無理やり勃起させられます。ここから、監督が口先とは異なり、「アーティスト」としてミロシュを尊敬などしていないことが分かります。

監督は「観客の求めるものははっきりしている」と言います。それは「犠牲者の人生だ」と。彼は幼稚園でのポルノはごめんだというミロシュに、産まれた瞬間に赤ん坊が医者にレイプされるビデオを見せ、「犠牲者の実力を見よ」と言います。*2 犠牲者として生まれた者は、生まれた時からすぐ犠牲者にされる。そんなことを比喩でもほのめかしでもなく、肉体に与えられる暴力でそのまま描いています。

しかし常識人のミロシュでさえ、変態的な破壊衝動をも持ちうることが明らかになります。それは序盤、ミロシュは妻に求められるまま暴力的なセックスをする場面や、中盤、少女が口紅を塗る映像ではなく、子供っぽい表情でアイスをなめる表情を見て射精する場面にも表れます。暴力的な衝動は誰もが持ちうるものであるということなのでしょうか。

ミロシュを主演としたポルノ映画では、性欲と他者を傷つける欲望がイコールとされています。そして、その映画は「観客の欲望に奉仕している」ものだと言われます。

セルビア人の一家族が、肉体的に徹底的に犯されつくした後に見せる目が虚ろで恐ろしいです。死ぬことで最後の尊厳を守ろうとするのですが、彼らは死んだ後も犯されます。彼らの死体を見つめる撮影クルー。彼らの表情には表現や創作への熱意などというものは微塵も感じられず、ただただ「観客が求めるからしょうがなく撮っている」という風情です。

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しかし私はこのセルビア人家族を搾取した主体が、いったいなんなのかよく分かりませんでした。それは観客全員なのか、それともセルビアの国を現実に抑圧しているなんらかの政治情勢なのか。*3現実の政治情勢における搾取を映画において表現したのか、それとも観客全体が搾取の主体で、このセルビア人家族に代表される文化的弱者に搾取を強いていると示したかったのか、それが私にはよくわかりませんでした。

生まれた直後から犯し、死んでもなお犯す。この映画の中の映画監督は(ややこしくてすみません)、「犠牲者を(その反逆の様も含め)エンドレスに見世物にすること、それが映画だ」とでも思っているかのようです。表現の世界において、文化的資本の蓄積がとぼしい弱者は、強者の娯楽に自らを提供し、犠牲を見世物にするしかない。ショックバリューで衆目を集めるしかない。だからこの映画には、映画の内容を表す題名ではなく、ただ「セルビアの映画」と、自虐的な開き直りとも言える題名がついているのか。「セルビアの映画」と自ら名乗ることにより、ショックホラーの一ジャンルを形成し、今後の海外資本の導入を促すために、…などと観終わったあと想像した次第です。

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【追記】不穏な雰囲気を高めるノイズの使い方が非常に印象的でした。現在公開中の映画『ドラゴン・タトゥーの女』に匹敵する嫌な感じでした。

*1:黒ずくめの彼らは、容易に暴力を連想させ、実際に暴力を行使します。彼らの持つカメラの一台が観客の目線となっていることからも、観客が視線の暴力を行使していることが示唆されます。

*2:赤ん坊は当然ですが作り物です。

*3:撮影されているポルノのプロットに、戦場の英雄ライコ、その「アバズレ」の妻、二人の娘、その祖母が登場し、物語らしいものが展開するのですが、それがセルビアの現状の暗喩をなしているのかどうかは分かりません。