Mahler on the Couch−『マーラー 君に捧げるアダージョ』感想


マーラー 君に捧げるアダージョ』をユーロスペースで観てきました。
(Dir. Percy Adlon, 原題: Mahler auf der Couch, 英題: Mahler on the Couch, 2010. ドイツ・オーストリア)


邦題ダサいけどよかった。しかしこんな邦題じゃ、まじめなクラシック音楽映画かと思って観客来ないだろー…。確かにマーラーはアダージェットやアダージョを"アルムシ"(マーラーの妻アルマの愛称)に捧げてはいるんだけど…。原題の「カウチの上のマーラー」の方が良かったんでないか?なぜなら、これはマーラーとアルマの物語であるとともに、マーラーが分析療法を頼んだ精神分析学の創始者フロイトとの物語でもあるんだから。


物語は、オランダで休暇中のフロイトを、切羽詰った表情のマーラーが訪ねるところから始まる。大作曲家でウィーン宮廷歌劇場音楽監督グスタフ・マーラーは、最愛の妻アルマと、新進建築家ヴァルター・グロピウスの不倫を知り苦悩していた。フロイトは、「あなたの犯した罪は何ですか?」と聞く。マーラーは「不倫したのは彼女だ!私は裏切っていない!」と答えるのだが…。


以下、ネタバレ感想。


これは創作である:


最初に画面には、「起こったことは事実 どう起こったかは創作」という洒落た断り書きが出ります。普通なら"Inspired by a true event"とか出るけど、ここでは創作と言い切っているので、「ああ、お話なんだな」と安心して観ることができます。フィンチャーもこの断り書き入れておきゃ後腐れなかったのに。*1


なぜアルマはグロピウスとの不倫に走ったのか、フロイト先生とマーラーが一緒に考えていく、という構成です。


アルマは芸術家サロンで育ち、自分も作曲家を志していた。しかし年上の天才作曲家マーラーとの婚約後、おままごとの作曲は止め、自分に尽くすように言われる。「私が欲しいのは妻であり、同僚じゃない」。アルマはマーラーの仕事をサポートし、子供二人を生む。しかし、長女が4歳で亡くなったことを機に心のバランスと体調を崩し、サナトリウムで知り合った若き建築家ヴァルター・グロピウスとの不倫に走る。このことが「不倫の事実発覚」からの倒叙形式で語られます。


「あなたが犯した罪はなんですか?」


この映画は、前述したフロイトの疑問の答えに、マーラーが気付くまでの物語だと言えます。


「夫婦そろって作曲家なんてみっともない」、とアルマに作曲家としての可能性を追求させず、自分の仕事だけに尽くすよう強制したことがアルマの不調と不倫の原因だということがいちおうの答えとして提示されます。「女性は男性の支えであるべきで、自分の可能性など追求すべきではない」というエゴマニアックな抑圧がいかに女性を苦しめるものかがよく描かれていました。マーラーはアルマに「僕は完璧な自由が必要だ」と言い渡す一方で、アルマには完璧な奉仕と服従を強います。


「私の中心点」:


フロイトとの対話のうちに、マーラーはアルマが「自分の中心点」("my center point")だということに気付きます。アルマは彼のミューズ(芸術の霊感を与える女神)でした。しかしその完全な受身の対象性自体が、アルマを苦しめます。自分からはなにも生み出せず、天才を支える役目しかない。しかし、マーラーが自分のために作曲してくれたアダージェットの楽譜を渡され、それを読んだだけで自らも音楽の素養のあるアルマは、いかに美しい曲を作ってくれたのかが分かり、涙を流します。*2 「君のために書いたんだ」と言うマーラー。その後娘を産み落としたアルマは、「あなたのためよ」と言います。男性は女性のために芸術を生み出し、女性は男性のために家庭を整える、そんな役割分担がのちのちアルマを苦しめることになります。"Dich! Dich! Dich! Mahler! Mahler! Mahler!"(「あなた!あなた!あなた!マーラーマーラーマーラー!」=あなたの中には自分しかいないから私の苦しみなど聞こえない)、「あなたは作曲と結婚したのよ」と、フロイト精神分析療法の最中にマーラーの中のアルマが責めます。あくまでも芸術のために自己中心的だった自分に、マーラーは気付きます。「私は鈍才だけど、自分で気付かせて欲しかった」とアルマは言います。芸術を志しながら、自分の創作が許されなかった女性の苦しみが伝わってきます。最初から可能性の芽を摘まれると、人の精神は病んでしまう。「男性は芸術を創造する、女性は子供を生む」、「どうせ女性には才能がないから男性に任せておけ」などと役割分担を強いず、せめて挑戦の自由くらいは与えよというメッセージが、この映画からは伝わってきました。


衣装と肉体の露出について:


この映画で優れていると思ったのは、マーラーとアルマの人間的魅力が十全に描かれていた点です。ヨハネス・ジルバーシュナイダー(Johannes Silberschneider)演ずるマーラーの端正な佇まいと、すべてをコントロール下に置こうとする冷徹に見開かれた目。バーバラ・ロマーナー(Barbara Romaner)演ずるアルマの芸術に魅入られた様子。


19世紀ウィーン分離派の女性たちは、現代の森ガールのようなゆったりした服を着ており、コルセットやブラジャーを付けていません。そのため、アルマの乳首が立ってるのがずーっと見えるんですよね。普段このような表象がなされるときは、女性キャラクターの性的だらしなさを印象付ける*3ためが多いのですが、この映画では「まーアルマ姐さんならしょうがないよ、乳の形いいもんね。むしろブラなんか付けてる方が違和感あるわ」というくらい、アルマ役の女優さんには肉体的魅力がありました。


裸で体を張ってるのは、アルマだけではありません。実はマーラーも心臓病が悪化して倒れ、背の低い生白い初老の男の肉体が露になる場面があります。それが序盤に出てきた「内面だけでなく肉体的にも美しい」と言われるグロピウスの体と対比されます。当初マーラーはアルマの不倫について、「年が離れすぎているのがいけなかったのか?」と悩むのですが、それが事実かもしれないと感じさせる残酷な場面です。


あと、女性たちのドレスや下着がとても可愛かったです。黒いショールのフリンジが白いドレスに映えて鍵盤のように見えるなど、非常に工夫されていました。マーラーの黒いフロック姿もキマってます。


19世紀と20世紀の対比:*4


この映画では、19世紀と20世紀の世代交代が見られます。


19世紀末、クリムト*5マーラーの退廃的芸術がウィーンで流行りましたが、アルマの浮気相手は「労働者のために鉄筋とガラスで住宅を作る」建築家グロピウスです。20世紀初頭にドイツにバウハウスを創始し、合理主義的・機能主義的な建築を広めた人物でもあります。20世紀の大量生産・工業デザインの話では、必ず名前が出てくる人です。ロマン派の詩人のように、彼女を「芸術的霊感の源泉」として崇拝するように見せかけて、実は牢獄のような妻の役割に閉じ込めているマーラー。彼女の性的欲求の対象となることを認め応えるグロピウス。理想の下に隷属を隠した19世紀の男女関係と、精神分析学後、女性の性的欲求を認めるようになった20世紀以降の男女関係が、あからさまに対比されています。


そんな19世紀的なマーラーが頼るのは、20世紀初頭に医学だけではなく文化、文学、芸術全般に多大なる影響を与えた精神分析学の父ジークムント・フロイトです。これは、マーラーフロイトにより深層心理を旅し、目覚めさせられるまでの物語でもあります。


男女の激しい愛憎の物語なので、フロイトマーラーのコミック・リリーフ的キャッキャウフフにはとても和みました。終盤、アルマの不倫の動機についてフロイトが一言で説明してくれたあと、マーラーが握手を求め、「グスタフ」と愛称で呼んでくれるよう頼むと、フロイトも「ジギー(Ziggy)」と愛称を名乗ります。これ、本当にフロイトの母がそう呼んでいたみたいです*6


あの有名なフロイトのカウチが出てきます。この映画を観たら、カウチ買って患者役の人の額に手を当てながら、精神科医ごっこしたくなること請け合い。おすすめです!

*1:まあでも現実と虚構の意図的攪乱も『ソーシャル・ネットワーク』は折りこみ済みだったのかもしれないが。

*2:このシーンは、音楽映画の傑作『アマデウス』で、モーツアルトの楽譜を彼の妻コンスタンツェから渡されたサリエリが、楽譜を読んだだけで圧倒されてはらはらと床に落としてしまう場面を彷彿とさせます。天才との違いを凡才が自覚させられる残酷なシーンでもあります。

*3:最近では『ブルー・バレンタイン』のミシェル・ウィリアムス。

*4:ウィーン宮廷歌劇場音楽監督を解任されたマーラーが新天地を求めてアメリカに渡る話が出てくるのも20世紀っぽいなと思いましたが、この項では立ち入って考えません。

*5:クリムトの絵が随所で見られるのもこの映画の魅力。

*6:Freud:A Very Short Introduction by Anthony Storr, Neville Jason, Reader. http://www.ralphmag.org/DA/freud.html