耐え切れないほど緩慢な終わりに向けて―『メランコリア』感想

(Dir. Lars von Trier, Melancholia, 2011. Denmark. )

TOHOシネマズ渋谷で、『メランコリア』を観てきた。

全編リヒャルト・ワグナーの「トリスタンとイゾルデ*1が流れる。

動いているのかいないのか分からないほど緩慢な動きで映し出されるキルステン・ダンストの花嫁姿。*2幼い息子を抱えて走るシャルロット・ゲンズブール。超スローモーションでゆっくりと倒れる馬。*3

メランコリアの接近を告げるゴゴゴゴゴゴゴ・・・という不穏な轟音。

自分よりも遥かに巨大な青い星に衝突され、粉々に砕ける地球。

そんな結末を最初に見せて、この映画は始まる。終わりがどうなるか見せた上で、一家族の極私的視点から、「地球がどう終わるか」を描いている。

                                          • -

本作は二部構成に分かれており、第一部は"Justine"、第二部は"Claire"と名付けられている。主人公となる二人姉妹の名前である。第一部では躁うつ病気味の妹ジャスティンの結婚式が描かれ、第二部では彼女を世話する姉クレアが中心人物となる。

                                          • -

第一部あらすじ:

世界一高給取りのウェディング・プランナー(ウド・キアー)が計画した豪奢な結婚式が、花嫁の義兄ジョン(キーファー・サザーランド)の居城で行われる。ジャスティンの家族が勢ぞろいするが、皆一癖も二癖もある人物である。*4

                                          • -

巫女としてのジャスティン:

この映画の中で、ジャスティンは宣託を告げる巫女のような役割を与えられている。彼女は広告代理店のコピーライターであり、彼女が天才的なコピーを生み出す瞬間を捉えるために、社員が一人配属されるほどの発想を持っている。第二部でメランコリアの接近に怯えるクレアに、追い打ちをかけるように絶望的なことを宣べるのも彼女である。

                                          • -

始まりの日=終わりの日:

ウェディングという始まりの日、ジャスティンは地球に近づいてくる巨大な星メランコリアの存在に気付く。一夫婦の始まりの日が世界の終わりの始まりともなっているのだ。彼らが夜にパーティを行うのは、後半メランコリアの輝きに照らされて薄ら青くなっていることの布石のようである。

                                          • -

ジャスティンのうつ病

結婚式でよく用いられるホームビデオ風の手振れカメラが多様されているが、一人ではうまく歩けないほど重度のうつ病であるジャスティンの不安定な心象風景を表しているかのようだ。「灰色の鉛に足を囚われて動けない」、「身体が思うように動かない」など、うつ病の症状と思われる台詞が頻発する。

しかし周囲はそんな彼女におかまいなく、結婚するのだから幸せなはず、という一般的な幸せの構図を押し付ける。たとえば、「結婚式の費用をすべて出した自分の権利」とばかりに、「幸せになれ」とジャスティンに命ずる義兄ジョン。それが彼女へのプレッシャーとなっていることに気づかない。ここで調子を合わせて感謝の笑みを浮かべた後、ジョンが背を向けると途端に不機嫌な顔になるジャスティン。キルステンの不平顔がよく生かされていた。しかし姉だけは、彼女が嘘をついていることに気付いている。

Justine: "I smiled, I smiled, I smiled."
Clair: "You're lying to all of us."

川に沈むオフィーリアとバスタブに沈むジャスティンの姿が重ねられる。*5三白眼気味で白い肌に金髪が冴えるキルステン・ダンストには、青くゆっくりと近づいてくるメランコリアの姿が重なる。

                                              • -

第二部あらすじ:

結婚式後、廃人のようになってしまったジャスティンを、自分の手許に置き手厚く世話をするクレア。家庭菜園でブルーベリーを摘むクレアとジャスティンの姿は美しい。しかし刻々と、メランコリアは近づいてきている。クレアの夫ジョンは、この星は地球には衝突しない、と言うが・・・。"It was the planet that was hiding behind the sun"と母親に教えるクレアの息子。いったん遠ざかったと思われたその星は、再び近づいてきていた。太陽の裏に隠れて・・・。

トリアーのクレア的人々への悪意

"Earth and Melancholia: Dance of Death"という新聞記事を読み絶望するクレア。彼女に絶望的な宣託を告げるジャスティン。結婚式で招待客が瓶に入れた豆の数*6が分かったように、人類全体の行く末が分かると言うジャスティン。

"The earth is evil."
"Life on earth is evil."
"I know we're alone."
"Life is only on earth, and not for long."*7

しかし同時に、ジャスティンが癒しの担い手でもあることを実感させるのは、彼女のクレアの息子に対する態度である。彼女は彼と一緒に森に入って木の枝を集め、「マジック・ケイブ」(魔法の洞窟)を作る。一方クレアは終盤に近付くにつれ、どんどんと神経衰弱の度を増していく。必ず死ぬことが分かっているので、このように取り乱すのはごく自然なことだ。しかしトリアは、彼女だけが終局にあって妹や息子との紐帯をも手放してしまったという風に描く。最後のシーンでのクレアの描き方に、このキャラに代表される"正常とされる人々"へのトリアーの悪意を感じた。

                                            • -

トリスタンとイゾルデ」が大音響が鳴る中、迫ってくる巨大なメランコリアを大スクリーンで観て、観ているこちらまで吹き飛ばされてしまうような感覚を抱く。

メランコリア』は、圧倒的な映画体験だった。

*1:「『トリスタンとイズー』(Tristan et Iseult: Tristan und Isolde) ヨーロッパ中世の創造になる「情熱恋愛の神話」ケルト民族の伝承段階から文学作品として初めて形態をとったのは12世紀中頃、フランス語による(散逸)。勇敢な騎士トリスタンは伯父のコーンウォール王マルクの妃になるべきアイルランド王女イズー(イゾルデ)を迎えに行くが、誤って飲んだ秘薬の魔力で二人はひかれあい、多くの試練や悔恨を退けて愛を貫き、苦しみつつ、死ぬまで貞節を守りとおす。[ . . . ] 『トリスタンとイズー』は中世末まで各国語に書き改められ、ヨーロッパ共有の文化となった。この素材はその後もヨーロッパ芸術にとっての宝庫であり、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』(1865)はその一例である。前奏曲の冒頭と終わりにみられる特異な和音が、半音階的な変化音を多く含むことから「トリスタン和音」という名称がつけられた。[ . . . ]」(ブリタニカ国際大百科事典) 映画中、ジャスティンと青い星メランコリアが不思議に惹かれあっているような描写がある。『トリスタンとイズー』の物語を踏まえると、メランコリアがイズーを迎えにくるトリスタン、ジャスティンがトリスタンへの貞節を守るイズーに思えてくる。ワグナーの『トリスタンとイゾルデ』は、第3幕第3場「愛の死」('Liebestod')で、イゾルデが恍惚として愛と死に溺れる様子を描いて終わる。それを踏まえて『メランコリア』の終局を思い出すと、ジャスティンがメランコリアと抱擁しているように思えてくるから不思議である。

*2:バストトップが露わになったウェディングドレスなのだが、キルステン・ダンストの大きな胸はよく映し出される。谷間に顔を埋める花婿の幸せそうな表情!

*3:いまイメージ・フォーラムで公開されている『ニーチェの馬』(タル・ベーラ監督, 2011年。)も、馬を飼う父娘の視点から、世界の終わりを描いた映画だった。馬が動かなくなる姿、倒れる姿は、映画を撮る人々に世界の終わりを実感させるのだろうか。

*4:母親は結婚を信じない女(シャーロット・ランプリング)、父親はいい加減を絵に描いたような男(ジョン・ハート)であり、二人とも結婚式をぶち壊すようなスピーチをする。娘の結婚式のスピーチで元妻を"domineering"(「威圧的」)と評する父親、元夫のスピーチを遮り、結婚の絆を信じてないと言い切り、"Enjoy while it lasts."(「せいぜい楽しむことね、続いているうちは」)と暴言を吐く母親。

*5:ジャン・エヴァレット・ミレイ作の『オフィーリア』そっくりの姿が出てくる。

*6:クレアはウェディング・プランナーが用意したこのアトラクションに対し第一部の終わりで、"Incredibly trivial."(「信じられないくらい些末」と言うが、その些事と地球の滅亡が、「ジャスティンには見えていたこと」という共通項で同列に並べられてしまう点にこの映画の暴力性がある。

*7:「生命は地球上にしかない」というこの台詞。「人間が出会っていないだけで、宇宙にはまだ未知の生命がいるはず」というロマンを愛する人々の願望を全否定するかのような発言である。ここでトリアーは「地球が終われば生命も終わりであり、それ以降生きているものはいなくなる。つまり完璧な死」と宣言している。彼にとっては、死をもたらすために徐々に近づいてくる青い星が、いちばんのロマンだということなのだろうか。そこに彼の作家性が見えるようで興味深い。