ある現代芸術家の肖像−『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』から見える、現代アートにおける「オリジナル」と「複製」の関係について

渋谷シネマライズで、『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』を観てきました。(Dir. Banksy, Exit Through the Gift Shop, 2010, United Kingdom, United States.)

個人的に、今年のベストテンには入る映画です。とても爽やかな青春映画を観た気分です。どこが爽やかって、冒頭、夜の街を自らの作った絵で彩っている若いアーティストたちの姿です。彼らの活動を応援するように、Richard Hawleyの"Tonight the Streets are Ours"という曲が流れてきます。しかし、映画は彼らの物語ではなく、ティエリー・グエッタ、のちのMister Brainwash(MBW)という「ある現代アーティスト」の誕生譚にシフトしていきます。

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作品自体がドキュメンタリーかモキュメンタリーか、議論の的となっていましたが、私の頭にまず浮かんだのは「複製技術時代の芸術に、オリジナリティはあり得るか」という疑問でした。


誰でも芸術家になれる時代


現代、「カメラや印刷機といった複製技術のおかげで、誰もがアーティストを気取れるようになった」という状況がこの映画の背景にはあります。ティエリー・グエッタは、ロサンジェルス在住のしがない洋服店店主でしたが、カメラで自分の人生を記録し続けていました。従兄弟がたまたまグラフィティ(落書き)・アーティスト*1だったので、それをきっかけとしてほかのグラフィティ・アーティストもフィルムに収め始めます。

作中彼が用いる道具の変遷を見てみると、彼が現代になって生まれた記録機械を使っていることが分かります。

ビデオカメラ→キンコーズコピー機シルクスクリーン

基本的に、彼が自分の手で一から作り出したものは一つもなく、現実の風景を記録したり、既存のイメージを「複製」しているだけなのです。


芸術作品の持つアウラと複製技術


ここで、ヴァルター・ベンヤミンの『複製芸術時代の芸術』で説明されている「アウラ」の概念を参考に、この映画に出てくる「芸術」について概括します。ベンヤミンはオリジナルと複製の違いを、こう説明しています。

「どんなに完璧な複製においても、欠けているものがひとつある。芸術作品のもつ〈いま―ここ〉的性質―それが存在する場所に、一回的に在るという性質である。」(『複製芸術時代の芸術』, 588)

『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』中、アウラ(一回性、「いまここ」性)をまとっているのは、ストリート・アーティスト達の芸術です。なぜならば、「君達のやっていることは犯罪行為だ」と、すぐに彼らの「作品」は警官たちによって撤去されてしまうからです。

それに対し、「複製技術時代の芸術」を代表するのが、グエッタの撮っていた膨大な量のフィルムです。

まず、「一夜で消されるグラフィティ・アーティストたちの作品」(残らない)vs「それらを記録した何百本ものグエッタのフィルム」(残る)という二項対立的構図があります。


ドキュメンタリー作家としてのティエリー・グレッタ


バンクシーが登場し、「最初は自分の半生についてドキュメンタリーを撮ろうと思ってたんだけど、ドキュメンタリーを撮ってる奴の半生の方が面白いと思ったんだ。だからそっちをドキュメンタリーにしたのさ」という作品の成り立ちの説明をします。

その後、映画の前半は「ロス・アンジェルス在住の洋服店店主ティエリー・グエッタが、いかにしてグラフィティ(落書き)アーティストたちと交流を始めたか」を追っていきます。

彼は唯一製作風景を納めていない大物ストリート・アーティスト、バンクシーを「パズルの最後のピース」のようだと感じています。グエッタはコレクター気取りなのです。

ドキュメンタリー作家ティエリーに芸術の素地がまるでないことが、それとなく晒されます。あるアーティストの彩色画を見て、"You draw?"(「デッサン画を描くの?」)と聞きますが、そこで彼が描いていたのは、"a painting"(「絵の具を塗った絵」)なのです。また、彼が芸術や芸術家について語る際に語彙があまり豊富でないことが明らかになるのは、バンクシーがどんな人間だったか聞かれても、"He is really great...human....I, I, I like him."としか言い表せない場面です。

彼がいまアーティスト名に使っている"brainwash"は「洗脳」という意味です。既存の写真にバーコードのような線を入れ、「スーパーマーケットにあるバーコードみたいだろう。われわれはみんな洗脳されているんだ」と、かなり大雑把な(そしてややテンプレめいた)説明をします。自らの「作品」が体現する概念を、彼自身正確には把握しておらず、もっともらしい言葉を並べ立てているだけなのです。

彼と比べると、「アンドレ・ザ・ジャイアントの顔に"OBEY"というキーワードを付けて何百回も壁面に貼るのを繰り返してたら、みんなが適当な意味を見つけてくれるんじゃないかと思ってさ」と考えたシェパード・フェアリー*2は聡明です。スクリーン・プリントの本質が「反復の力」であることをよく理解していたと言えるでしょう。

ビデオカメラを使った何年もの取材のあと、ティエリーの撮った作品がやっと形になります。"LIFE REMOTE CONTROL"というタイトルの映画です。ストリート・アーティストたちの活動をかつてのMTV風に、短いカットを繋げた映像で、彼らの名前や作品名などろくに説明されず、いかにも思わせぶりでかっこよさげな断片的カットがアトランダムに続きます。


Mister Brainwashの作風


その後グエッタはバンクシーの名前を利用した宣伝を打ち*3、Mister Brainwashと名前を変え、首尾よく現代アーティストの仲間入りをします。しかし、彼の作品はシルク・スクリーンを用いて有名人をコピーしたアンディ・ウォーホル劣化コピーです。ウォーホル自身の作品は「複製技術への鋭い批評」となっていましたが、MBWは意味も分からないまま自分を「ウォーホルの後継者」と見なし、ただ単にウォーホルと同じ手法でコピーを繰り返しているだけなのです。「複製が増えるとアウラが消える」ことをウォーホルは分かっていましたが、MBWはただ「こうすれば現代アートっぽく見えるんじゃないか」と刷り込みされたかのように、手法のコピーを繰り返すだけなのです。

すでにMBWの作品は、オリジナルと複製の関係を超越しています。彼の作品は、ウォーホルの作品が「スープ缶やマリリン・モンローの写真の複製」であったのに対し、「複製であるウォーホルの作品の複製」、つまり、複製の複製なのです。「オリジナルなきコピー、生まれたときからコピー」なのです。*4

ストリート・アーティストたちの「一日で消される一回きりのゲリラ的アート」から始まったこの映画は、MBWの「100万ドルを売り上げる展覧会」で終わります。自前の道具で、そして自分の肉体を駆使して街を彩る「落書き」アーティストたちの姿で始まった映画は、自分ではなにもオリジナルなものは生み出さずに大金を手にする「現代芸術家」の成功を描いて終わるのです。


誰でも芸術家になりうるし、誰でも観察、考察、批評、そして消費の対象(=芸術作品)になりうる


成功したMBWの姿が映し出されるとき、当初「観察の主体」(あるいは観客の目線)であったはずのグエッタが、「カメラの観察の対象」となったことに気付かされます。カメラを向けられていたバンクシーが、MBWにカメラを向ける。その瞬間、主客の、つまり芸術家バンクシーと、記録作家グエッタの関係は反転します。それは、「カメラを向けることにより、誰でも芸術家 / 芸術作品*5に仕立て上げられる」ということを示しているのではないでしょうか。複製技術が発達したいま、「何をどう呈示するか」は、単なる編集の問題でしかないのだから。



『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』は誰の作品か?


それではこの作品は誰が「編集」したのでしょうか。作中「グエッタには編集する力がない」ということが繰り返し強調されます。そうであるならば、膨大なグエッタの映像アーカイブを編集し、物語性・メッセージ性を持った映画にしたのは、おそらく監督としてクレジットされているバンクシーなのでしょう。テープは何千本もあり、中にはラベルさえ貼られていなかったものもあったそうです。その中から、ピックアップすべき人物、場所、題材を選択するのには、どれほどの忍耐力と編集センスが必要だったことでしょうか。一つの作品を作り上げるためには、ただ素材を収集するだけではなく、アーティストのヴィジョンと形成する力が必要である。そのことを、これほど鮮やかに例示している映画をほかに知りません。それを考えると、やはりこの作品はバンクシーの作品であると言えるのではないでしょうか。


芸術「作品」を大量消費する時代


『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』というタイトルですが、私はあえて直訳風に「お土産屋を通ってから帰ってね」と受け取りました。美術館めぐりをする人はお気づきでしょうが、通常芸術作品の模造品や展示されている作品をモチーフに使った文房具、アクセサリの類が置かれています。それもアート産業の資金源の一つなのです。この映画を観たあと、美術館に付属しているお土産屋は、「現代の人々がアートっぽいイメージを生活の中に置き消費する姿」の象徴のようにも思えてきました。


Wall and Piece

Wall and Piece

Exit Through the Gift Shop [Blu-ray] [Import]

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シミュラークルとシミュレーション (叢書・ウニベルシタス)

シミュラークルとシミュレーション (叢書・ウニベルシタス)

*1:インヴェーダー・ゲームのキャラを手作りで複製して街中に貼っているので、アーティスト名は"Invader"。

*2:シェパード・フェアリーの作品集はこちら。

Obey: Supply & Demand - The Art of Shepard Fairey

Obey: Supply & Demand - The Art of Shepard Fairey

*3:権威を茶化す作風のバンクシーの名前が権威として利用されるのは、皮肉としか言いようがありません。ここでMBWが「バンクシー」という記号を使い現代アート・メディアの注目を集める様は興味深いです。もしかすると、ここまで含め、MBWの広告に名前を出すことを許したバンクシーの、メディアを巻き込んだドッキリだったのかもしれません(作中ではいかにも悲痛に「名前を貸したのは失敗だった」と頭を抱えています)。

*4:ここらへんは、ボードリヤールの『シミュラークルとシミュレーション』を参照しています。。「ベンヤミンが映画、写真、現代のマスメディアについて描いているが、こんな展開をみせる最も先端的で近代的な形態とは、そこにオリジナルがもはやなく、決して存在さえしなかったということだ」。(『シミュラークルとシミュレーション』「クローン物語」130)。ちなみに、ボードリヤール自身がグラフィティ・アートについて書いているのはこちら→『象徴交換と死』中、「VIII クール・キラー、または記号による反乱」(pp. 182-207)。

象徴交換と死 (ちくま学芸文庫)

象徴交換と死 (ちくま学芸文庫)

 「グラフィティは、都市の壁面、地下鉄やバスの路線などひとつの肉体(原文傍点)につくりかえてしまう。落書きによってあらゆる性感帯を刺激された、はじめもおわりもない肉体に」(p.197)。「都市=肉体、グラフィティ・アート=刺青」という見立てが面白かった。

*5:MBWは、ドキュメンタリーで記録されている「芸術家」であり、バンクシーによって現代芸術の成り立ちについてのメッセージを伝えるために作られた「芸術作品」でもあることから、この表記にした。